02. 安上がり  ―或いは、銅貨二枚分の純情について―



 1985年――この東洋の島国は、戦後の高度経済成長期を経て、行財政改革の只中にあった。
 1971年のドル・ショックと10ヵ国蔵相会議によるスミソニアン合意、それに伴う円切り上げ。73年の石油危機と狂乱物価を経て、漸く安定を手にしたのは1976年。その後も同年のロッキード事件に、79年の第二次石油危機と政経財界の危難は続けども、世の中全体という観点での緩やかな右肩上がりは衰えることがなかった。――そのような情勢の中で、1981年に鈴木善幸内閣によって発足した第二次臨時行政調査会は、大型間接税の導入を避ける「増税なき財政再建」の手段として、現在にも繋がる行政改革の一手段、国有事業の民営化及び分割という答申を提示したのだ。
「まだ幼稚園にも、行っとらへんっちゅうねん」
 しかしながら、1985年。現在のJR、当時で言うと国鉄の、分割・民営化関連8法成立を翌年に控え、先鋒としてその4月に二つの公社の民営化が決行された。つまり電電公社と専売公社が、日本電信電話会社と日本たばこ産業株式会社、現在で言うNTTとJTになったのだ。因みに、この後も順調な動きを見せていた経済は、翌年になって地価と株価の異常高騰に沸くこととなる。超低金利と金余りに溺れたこの事態は、新元号になぞって平成景気、またその実態を揶揄してバブル景気と呼ばれ、これがやがて現在に通ずる鍋底型長期不況に繋がるのだ。
「いや、別にそんなんどうでもええし」
 思えばもう三年も前の、大学受験の際に叩き込んだ知識を一通り反芻し、そして苦笑半分の溜め息を吐く。
 どうでもいい。少なくともこれらは結論としての史実に過ぎず、今この手元にある数センチ四方の現実との関連性は、まず見当たらない。
「……よなぁ、多分」
 二十世紀末の利器のひとつである、手中の液晶画面。そこに表わされた、無機質で愛想の欠片も感じられない幾らかの文字郡。
「ほんまに、えー加減にせいって感じやな」
 中空に向かっての裏手ツッコミとともに口に出した言葉は――しかし虚しきかな、己が行動と一致していないという事実にもまた、嫌という程の自覚があった。
新着メール、1件
 差出人 :  緋川英彦
 題   名 :  (no title)
 本   文 :  いつもの
 無意識に零れた呆れ混じりの片息に、かつての行財政改革の賜物である現物は揺らぎひとつ見せない。そしてそのいっそ快挙ともいえるほど簡潔に殉じた文面が、時同じくして登場した組織より生み出された製品を示しているもまた、自身にとって既知の事実である。
 ガコン、という凡そその質量とはつり合わない派手な音を立て、転がり落ちた掌大の箱を拾い上げる。眼前に居並ぶ色とりどりの同種の中で、白地に濃紺を刷いたパッケージのそれが、彼の中のどのような基準によって選択されているのか。ふとそんな疑問が浮かびもするが、非喫煙者である自分には検討もつかないし、また身をもって知ろうとも思わない。第一、今更になって時勢から逆走してどうするのだ。そうでなくとも、義務教育時代より延々と聞かされ続けているではないか――そう、煙草は百害あって一利なし、と。
「というか、高々煙の為に月何千円もつぎ込むのはどうかと思うわけなんよ、苦学生鞠明ちゃんとしては」
 学費も小遣いも共に完全支給制のくせに? などという内なるツッコミは無視して、受け口より吐き出された釣り銭を握る。錆と手垢で薄汚れたそれは微かな熱を孕んでいて、硬質な感触とともに妙な心地よさを(もたら)す。
 もう一度だけ、開いた携帯電話のメールを眺め、それから手の中の煙草の箱を見遣り、そして自然と唇の端が持ち上がるのを自覚する。
 それはつまり――近代の日本政経史をまったくもって奇妙な形で融合・昇華させた、有村鞠明のごくありふれた日常だった。


 緋川英彦という男は、基本的に身勝手だ。
 十一も年上で、しかも学部こそ違えど自分の通っている大学の助教授で、そして紛れもなくこの自分とオツキアイをしている彼は――今、不機嫌の骨頂にあった。
「……なんだ、お前か」
 相も変わらず無作法に身を預けた回転椅子から、そう低く唸る。掻き毟りでもしたのかやや乱れた髪と、乱暴に緩められたネクタイ、只でさえ日光の恩恵から遠い青白い面には、はっきりと寝不足と疲労の陰が浮いていた。
「あんな一方的な、しかも毎回、毎回、大学のメールアドレス使(つこ)(おんな)し文章を転送しとるだけの愛想もへったくれもないメール遣しといて、そーいう態度に出るんかい自分は!」
 そう一息で押さえて置くべきツッコミを口にしながら、綿埃の浮いたブラインドを上げて、この不健全極まりない空間を穿つ。ついでに机上の一角を占めている、山成す有害物質の残骸と不精に汚れたカップを洗い場代わりの洗面台に運び、その途中で備えていると言うより落ちているという感のコンビニ袋を拾い上げ、即席のゴミ入れとする。
「あーあたしってば、なんて甲斐甲斐しい」
 ブラウスのカフスを解いて、洗剤とスポンジを構えた自分に苦笑を洩らす。冬場になったらハンドクリームくらいは支給してもらわんとな、そんな呟きをシャボンで流して、無意識に口ずさむメロディーに溶かす。
「なんていうか、もっとこう、健康的にお仕事すればええのに」
 閉めた水道の栓の小気味よい音、ややふやけた指先で結晶を点す雫、使い古したハンドタオルの磨耗した手触り。結局どれをとっても気に食わないものなどなく、すべてが確かにある日常の感覚に浸透している。そのことに、一定の満足感と一握りの優越感を覚える。
「そんなんやったら、身を削ってのと一緒やん」
 まったく時代錯誤の作家じゃあるまいしと呟き、水滴を拭った灰皿と先達て購入して来た箱を机上に並べる。
「うるせぇ、代金は払ってるだろうが」
 気が置けないからこその乱雑な言い草と、交換とばかりに投げ出された鈍銀色の硬貨が三枚。
「あのな、わかってへんみたいやから言うたるわ。あたしは心配してんのとちゃう、感心してんねんで」
 人差し指を突きつけて断言しながら、しかし反対の手で眼前の硬貨だけはしっかりと財布に収める。
「高々煙に月に何千円つぎ込んだり、自ら身体壊すような真似なんて、賢いあたしには絶っ対っ出来へんからな」
 何しろ時代の最先端をいく将来有望な若者やしと、だらしなく腰掛けたままの男を半眼で見遣る。
「はいはい、どうせ私は時勢に取り残された愚か者です」
 あからさまな棒読みの声と、それに反して積極的に封を切る手。
「しかして新時代の先駆たる鞠明さんは、何故か算数がお出来にならないとお見受けするが?」
「ふん、賢くて忙しい鞠明ちゃんの手間賃は(たこ)つくねん」
 これでも釣り銭だけで許してあげてんねんで、と唇を尖らせると、疲れた目元が苦笑に和らいだ。
 真新しいその話題の主が取り出され、続いてキン、という独特の金属音が響く。続いて、口元に寄せられる存外繊細そうな、それでいて自分とは違う異性の造りをした長い指。鋭利なラインを描く頬と、緩く伏せられた瞼の陰。そして満足げに吐き出される白い煙と、特有の甘い香り。
 セロハンを破った時点で仄かに香るそれは、まるで頑是無いキャラメルを思わせる。かつてまだこの匂いに慣れていない頃は、成人の象徴的たる嗜好物のくせにとよく笑ったものだ。だがそれも、今にして思えば、ひどく眼前の男に似合っているように見えてならない。
「……なんだよ」
「別に」
「ふぅん?」
 煙草を手にしたまま片肘を突き、にやにやと崩された顔がなんだか妙にいやらしい。確実に青年期のそれから二、三歩ほど外れた笑みに、下手に勘繰られているのかと思うと、甚だ悔しいばかりだ。
「ほんのちょっとだけ、そんな煙って美味しいもんなんかな、て思っただけや」
「なら、試してみるか?」
 ん、と無造作に差し出された箱に、流石の好奇心にも逡巡が過ぎる。そもそもおつかいやゴミ捨てで手にしたことはあっても、ごく正当な持ち方、つまり喫煙という行動に出たことは一度としてなかった。何しろ一般に最も関心が高い時期とされている中高生時代ですら、考えもしなかったのだから。
 つらつらと記憶を手繰り、ついでその理由に思い至って、薄く自嘲する。なんのことはない、誰もそんな自分を望まず、所詮自分はそれを甘んじていただけだ。現にもうひとつの成人の象徴的な嗜好行動である飲酒に関して言えば、年の数が両手指を越えるか超えないかという、どう考えても恐ろしく早い時期に経験していたのだから。それも実家が酒類販売業を営んでいるからだといえばそれまでだが、実のところ、酒屋の娘だから飲んでいてもおかしくはないという周囲の認知があったからに過ぎない。つまり極端な話、飲酒をする有村鞠明は認められてここに在るが、喫煙をする有村鞠明は認められない限り、存在してはいけないのだ。
「それとも、もしかして先生は……」
「ま、吸わないならそれに越したことはないな。特に、お前は」
 似合わないだろ――そう無邪気に続けられて、僅かに伸ばしかけた指先が一抹の寂しさを残し、握り込められる。ほんの一瞬産まれかけた人形を、迷うことなくその手の中で潰して。
「まぁ考えてみれば、今でも十分誰かさんの副流煙に犯されとるし。これ以上、鞠明ちゃんのワクワク老後計画に影響を与えたくないわ」
「ああそうだな、少なくとも向こう四十年は心身ともに健常を保って、哀れな年長者の為に納税と国民年金の納入に貢献してくれよ」
「悪いけど、利率の低い投資は主義に反するねん」
「ほう、ならば財政改革の新星となるか。頑張れ、若人」
 馴染みの軽口と、他愛のない皮肉。その為ならば、しがないアイデンティティの切り替えなど容易いことだ。だって仕方がないだろう? これはけして無理ではなく、自己犠牲でもない。ただ思い赴くままの、自分でも呆れるほどに直向きな、必然なのだから。
「鞠明」
 たとえば、その音や気配、痛みや苦味、湿度や感触。それらは(さなが)ら幼い汎神論のように、謂れのない確信をもって統覚されている。けして心地いいものばかりではない筈なのに、気がつくとその奇妙な耐性に縛りつけられ、そしてひどく満足している自分がいる。まったくこれを純然と呼ばずして、一体何が残るだろう。
「うん?」
 隙なく添えられた微かに温度の低い指先と、頬を過ぎる熱を孕んだ。気遣うように、それでいて適確に囚われる一点。碌な抵抗すら為せないまま、口腔内を支配する濃厚な無質感の味覚。
 互いの唇を合わせるという行為が出来るようになったのは、本当につい先頃のことで。なのに、これほどまでに日常に溶け込んでしまったのは、(ひとえ)にこの傲慢オヤジの所為だ。
「――で、お口に合いましたか鞠明サン」
 憎らしいことに、いつも追いつきそうになったところで、するりといやに自然に離れるのだ。それもまるで、計ったような絶妙のタイミングで。そうしてこちらが骨伝導が捕らえた微かな水音と、上唇に落とされた名残から立ち直った頃には、取り澄ました顔で飄々と煙草なんぞを吹かしている。自分だけほんの数分、いやもしかしたら数十秒に過ぎない過去を切り取って、いかにも私は清廉潔白な社会学部の若手助教授ですとばかりに。
「なんか、口ん中に何もないのに味がするって、かふかふしてヘンな感じ」
 でも思ったより苦くないし、割と美味しいかも……と小さく続けると、どうせ拒絶すると踏んでの行為だったのだろう、僅かに余裕が揺らいだ目が見張られる。自分のそれとは違って純正の彩を宿した水晶体が、真っ直ぐな驚きを映していることに、先程までの焦燥が相殺される。これでプラスマイナス、ゼロ。どんなに感情が働こうとも、自分じゃないものに対する理解なんて、所詮はそんなもの。
 そういえば回数を重ねているにも関わらず、煙草の気配がこれほどまでに濃い口接けは初めてだった。それなりに、気を遣われていたということかもしれない。なんだか、あまりに「らし」くて嬉しい以前に笑ってしまうのだけれども。
「でもまぁ、貴重な未来を犠牲にしてまで、味わうほどのもんやないな」
「……それは賢明だな」
 予想以上に衝撃が大きかったのか、返ってきたのはいまひとつ冴えない反応。まったく一体、どんな幻想をあたしに抱いてたのやら。
 恋は盲目、なんて手垢に塗れに塗れた言葉が今以てしても使われているくらい、感情は古今東西いつだってどこだって本当に身勝手な代物だ。(ちまた)蔓延(はびこ)る愛だの運命だの理解だのは、それの正当化か自家中毒に過ぎない。……少なくとも今は、そう、思う。
「第一、さ」
 言いかけ様、珍しく組まれていないのをいいことに、面白ずくに従ってその膝に横座りしてやる。無論、口元の邪魔者はしっかり奪い取り、洗い立ての灰皿に押し付けながら。
「あんなんよりも、こっちの方が美味しいと思わへん?」
 うっすらと口元を歪めて、そのまま安っぽい仔猫よろしく、目の前の唇をちらりと舐める。二人分の重量を受け止めた回転椅子が、(うめ)くように鳴いた。
「――そういう卑俗な言動は、自身の程度が知れるというものだぞ有村くん」
 お言葉の割に、肩から上の血行が幾分よろしくなったように窺えますが、緋川助教授?
「ええやん、煙草味見記念のちょっとしたお戯れ」
「残念ながら、先生は遊んでる暇なんざねぇんだよ」
 ごく間近で響く拗ねた声に、多分な愉悦を覚える。そうやって、いじけてごねて、あたしを確認すればいい。それだけで、間隙にある必要十分条件は成立するのだから。
 そう、たとえば他愛無い口接けのように。医学的にいえば本来性感帯ではけしてない部分、それが接触という行為の中で最も神聖視されているのは、偏に感情の高ぶりによる自己陶酔に過ぎない。なんて取るに足りない、幼稚な構造。けれど世俗に(おもね)る心理学で言うところの、極めて高い親密度を示す範囲内にいても尚、巧く理由から目を逸らせていられるのは、そのシステムの所為に他ならない。
 聞こえのいい、関係を示すオブラート。内包された薬剤は思ったよりもずっと甘く、ありえない完治すら夢見させる程。依存に捧げる代償は高が知れていて、暗澹(あんたん)たる国民年金などとは比べるべくもないハイリターン。
「……えっ?」
 思考と共に巧く保っていた筈のバランスは――その土台が、山積になった書類の下からクリヤーファイルと数冊の文献を引っ張り出し、次いで足元のブリーフケースを拾い上げるという行動によって傾いだことで、見事に呆気なく崩れる。
「うわ、落ちる!」
 なんとか重力方向に抗おうと咄嗟に伸ばした両腕が、手近なものに縋りついた。拍子に、無意識で閉じてしまった視覚に代わって感覚を支配する。舌先に漂うのと同じ甘苦さと、整髪料の硬質な刺激、そしてその下に潜む彼という実感。
「ちょっと、吃驚したやんかアホ」
「勝手に乗っかかってきたくせに、阿呆呼ばわりはないだろ」
 握り込んだシャツの襟元から直接響く声と、低く震える肩口の動き。
「もしかして、もしかせんでも、態とやろ!」
 悔し紛れにぐいぐいとネクタイを引っ張り、続けざま雑言を吐き出そうと吸い込んだ息は――しかし腹立たしいほど余裕めいた唇に、再び閉じ込められてしまう。……ああ、なんだか最近、やたらとこの手口で丸め込まれているような気がする。掬い取るように(つい)ばまれたまま、こうも簡単に許してしまう己の単純さに心中で舌打ちを落とす。
「センセイは遊んでるヒマが無い、んとちゃうかったん?」
「その通り、タイムリミットは後五分」
 背中を支える腕に促され、軽く反動をつけて床に飛び降り、次いで壁の文字盤に目を向ける。頂上より確実に角度を落とした短針と、健気に職務を全うしている長針が、端的な現実を的確に示している。
「1時55分の北大路行き、やったけ?」
「でもって、2時10分発の北山行きに乗り換える」
 市営バスと市営地下鉄の時刻を互いに確認しながら、ソファーに投げ出されていた上着に袖を通し、無造作に詰め込んだ鞄を閉める。ちゃっかり胸ポケットに収められた件の箱をちらり眺め、相変わらず妙なクセを残しているネクタイを直してやると、薄給弱輩非常勤講師の出来上がり。
「緋川先生、華の女子大バージョンやな」
「……気色の悪いことを言うな」
 不本意を全面に表わした低い呻きに、思わず苦笑する。曰く、彼がこれから対峙する学生たちは、自らの首から上のものの使用を生まれながらに放棄しているに違いない、らしい。まさに高学歴・全入学時代が齎した、受講生の質的低下という弊害。……けどさ、それを聞かされているこのあたしも、紛うことなくその一員なんやけど?
「はいはい、お留守番しててあげるから、さっさと行き」
 眉間に刻まれた教育者の苦悩を敢えて無視して、そう態と乱暴に言い放つ。いくら講義の環境が悪くとも、どれだけ気が進まなくとも、流石に遅刻はまずい。しつこくぶつぶつと渋りながらも、ようやっとドアの向こうに消えた背を見送って――知らず零れ出た吐息の、それを受け留めた虚空に笑われる。
「待っててあげるから、か」
 ほんと、我ながらよく言う。
 じん、と訪れた空間の孤独。込み上げてきた薄い嘲笑に緩く首を振り、ちょうど傍らに位置していたステンレス製の籠から馴染みのマグカップを取り上げる。パステルピンクの表面に、擬人化された二頭身の白ウサギ。よくよくみると、ちょうどその反対側には、毛玉に足をつけたようなヒヨコが描かれている。元は何かの景品か粗品だった筈なので、もしかしたら底面辺りに刻印なり社名なりがついているのかもしれない。尤も、それを今改めて確かめる気なぞ更々ないが。
 カップを手にして――電気ポットの傍、スチール製のファイル棚と書架に追いやられるように配されたカラーボックス、その上に置かれたコーヒーメーカーに視線を巡らせる。ちょうど一杯分と少量が残されているそれは、しかしいつ淹れたのか不安を覚えるような代物だった。
「こんなんばっか飲んでたら、胃ぃ壊すで」
 この機器を買えと勧めたのは、確かに自分だけれど。
 もったいないという吝嗇(りんしょく)な内心の悲鳴に目を瞑って、サーバーごと洗面台に放り込み、ボックスの下の棚から紅茶のティーバックを取り出す。湯を注いで、スティックシュガーと牛乳を加えれば、ふわりと静穏で柔和な呼吸が辺りに満ちる。芳ばしい苦味や酸味ではない、包み込まれるように香る甘味。
「別に、無理しとるわけやないけど……」
 結局、駆け引きや算段とは別次元で、自分という個人の要素は容易に変化する。それも抵抗の余地すらなく、寧ろ全身をかけて平伏し追従してしまう。そう少なくとも、元来の紅茶党がコーヒーを好むようになるくらいには。
 思えば勝敗など、とうの昔に決している。気紛れぶって振り回して見せるのは、己が余裕のなさが発露したに過ぎない。
「やっぱ先に言うたんが、あかんかったんかも」
 どう考えてもこっちの方が分が悪いし――そんな詮無い呟きに嘆息して、(おもむろ)にカップに口をつける。
 気にしないといえば間違いなく嘘になる、確実な格差。それを歓喜ととるか、焦燥ととるか、それとも嫌悪ととるか……ハムレットと洒落込んで暢気に思考を廻らせている時点で、実は答えなぞとうに出ている。
「少女マンガじゃあるまいし、ハッピーエンドでめでたしめでたし、なんて気楽に言うてられへんもんなぁ」
 そこまで夢見れたら、幸せなんやろうけど。
 元々、周囲やおそらくは彼自身が考えているよりもずっと、自分はそう可愛くは出来ていない。結局、いつもどこかで冷然と状況を観察し、その場その場で望まれた、或いは刹那的に都合のいい自分を造り上げて、なんとか世界に対応しているだけなのだから。
「ま、つまりはそれが、あたしらしさなんやろうねぇ」
 アイデンティティなんて、所詮は穿った自己満足。切っ掛けはいつでもどこでも24時間365日、まるでコンビニエンスストア並みの軽薄さで、人は変わる。それと同時に想いなんて持続的に行うもんじゃないし、第一、そんなの保てるわけがない。
「そういう見解的な意味では、案外、向こうの方が純情なんかも」
 一旦カップを降ろして、近くのパイプ椅子に掛けていた最近愛用しているジャケットのポケットを弄る。ややあって手にした二枚の硬貨は、先刻まで孕んでいた熱の気配もなく、只々無機質な硬度だけが支配していた。
 次いで、隠された紅茶のパックの、そのまた後ろに潜ませていたブリキの缶を引っ張り出す。元が砂糖菓子の容器だったこともあり、表面に施されたデザインは古びていても鮮やかだ。蓋と本体の継ぎ目に指先を掛けて力を込め、僅かばかりの隙間を作る。そこに押し込むように銅貨を落とすと、重力に従って微かに響いた着地音は、その底面から予想するよりもずっと浅い所で示した。
「結構、溜まってきたな」
 缶を元通り封して、じゃらじゃらと無造作に振りながら、にまりと口角を歪める。
 一回につき十円硬貨が二枚、十回で二十枚だから二百円、五十回でちょうど夏目漱石一人分ということになる。無論それに伴う喫煙量という観点に於いては、けして望まれることではないのだけれど。
「やっぱり、おやつかな……?」
 呟いて、その本当に細やかな計画に自然と頬が緩む。
「そやけど、アプリコットのジャムも捨て難いな」
 あの身勝手で一生懸命で、傲慢で一途な、そして今頃は苦手な学生相手にきっと眉間の皺を増やしているに違いない、愛しの助教授殿に。たとえ飲み慣れているだろう宮之園家のそれとは、比べるべくもない代物だとしても――煮詰めきったカフェインや燻るニコチンよりはずっと、限りなく優しさに見せかけたあたしのやり方で。
「よし、とにかく後もうちょっとで夏目さんやし。そん時に考えよ」
 陥りかけていた思考の渦から一旦けりをつけて、ブリキ缶を元通り紅茶の後ろへと仕舞い込む。そんな行動が、まるで稚拙な儀式だとはとっくに自覚していて。こんなままごとめいたことを、楽しんでいる自分がいる。
 今日もまたほんの少しだけ、けれど確実に重さを増した秘密の貯金箱。それはまるでちっぽけで取るに足らない、しかし掛け替えのない日常の手応え。
「そういえば、1985年って苺大福が売り出された頃やなかったっけ?」
 再びカップを手に取って、今度はゼミ用の机の傍を抜けて、奥のデスクスペースへ足を運ぶ。
「あーそうそう、シールのおまけがついたチョコが流行っとった時や」
 そう、1985年。
 政経財界の動向なんて、精々数十円程度の駄菓子でしかなかったあの頃。将来は一律な指針で示された、平面図でしかなかった。大きくなったら学校へ行って、お嫁さんになって、お母さんになるの――至極単純で簡潔なその白地図に、感情という複雑なデータなんてありえなかった。
「それが今やあんなオヤジ相手にぐるぐるするやなんて、あの頃の鞠明ちゃんも吃驚や」
 大体、その当時の奴は中学生か下手すりゃ高校生なわけで。そう考えると改めて溝渠(こうきょ)の深さを実感し、小さく独り笑う。
 均された平坦な舗道では、そもそも成立なんてしない。山あり谷あり、砂礫や(にわたずみ)、時に落とし穴や倒木や吊橋に遭遇したりして、それでも歩いていく。よくある話、ありがちの展開といいながら、類型はあっても基本形なんて存在しない。人が人に惹かれるということは、つまりはそういうパラドックスで出来ているのだろう。
「……まぁ少なくとも、今のところはこっちが有利やからね」
 いつの間にか凭れ掛かっていたデスクの右端、一番上の引き出しに手をかける。机上の有様からは想像もつかないほど整然としているそこには、確かに見覚えのある掌大の白地に濃紺を刷いたパッケージ。しかもそれが、数箱。
――きっと、貴方は知らない。いや正確にいうと、こちらが勘付いているということに気がついていない。
 お使いという名目で、買い置きがある筈の煙草を買いに走らせることで、自分のところに呼び寄せていること。そして今が、かつて大告白を演じたあの日と同じ曜日の昼下がりだということ。それ故か否か――この曜日のこの時間だけは、妙に接触過多になるということに。
「取り敢えず可愛いから、あたしのお釣り目当てってことにしといてあげる」
 なんて安上がりで、子どもじみた純情。たった銅貨二枚じゃ、あの懐かしのチョコレート菓子だって買えやしない。しかしだからこそ――対価となるのは、ただひとつ。
「そやから、さっさと帰って()いや」
 優しいお茶と甘いお菓子、そして貴方の為の有村鞠明を用意しているのだから。


2000.11.26/2004.5.30




作品注記

・ 文中の二人は、初稿当時から換算し1970年と1980年生まれとなっています。
・ 小道具について、助教授の煙草はコチラ
  チョコレート菓子は私と同年代ならご存知の、ロッ○のビッ○リ○ンチョコです。


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