「勇気」

雑踏の中でふいに、「勇気を出して!」と言う言葉を聞いた。「勇気」という言葉が新鮮に耳に飛び込んだ。その言葉を私は長い間忘れていたような気がする。

子供時代の毎日は、えい!と勇気を振り絞ることの連続だった。通学路にいた大きな犬、夜の暗闇、底なし沼だと信じていた日のあたらない池、友達と一緒に飛び降りないといけなかった高い石垣、校区の外側。世界は未知であり、すべてが大きくそびえて、あるいは威嚇しながら、私を囲んでいた。大人になって見れば、何のこともない風景であることに、拍子抜けするが、まさにあのときのすべては冒険だった。私は、勇気を振り絞って、そのひとつひとつを克服し、自分のものにしていったのだ。そう、綾夏の小さな体にもいっぱいの勇気が満ち溢れていた。そして、この世を駆け抜けていった。

 綾夏を失い、私は自分をずたずたに引き裂かれた。あの日から私は、自分の傷をなめて癒したり、あるいはその行為に矛盾するように、かさぶたを引き剥がして血の流れるさまを眺めたりしながら暮らしてきた。その傍らで季節だけが3回流れていった。

なんの疑いもなく歩き続けていた道を突然に絶たれ、途方にくれたまま、無くなった道の向こうに広がっていたはずの風景ばかりを空想している。現実の行く手には、不安だけが広がり、乗り越えられそうもない壁に四方を囲まれているようだ。
  私には、そろそろ勇気が必要なのかもしれない。まず、現実をそのままに認めること。そして、立ち上がって一歩を踏み出し、そこから道を拓こうとすること。

でも・・・ともうひとりの私がつぶやく。何に向かう道を拓こうとするの?どんな道の先にも、あれ以上の幸せなんてあるはずがないじゃないの、と。