「こうして、まだ、生きている」

もう2年位前になるだろうか。近所の神社の大きな木の幹が、ばっさり切り倒されてしまった。木の葉が道路に落ちることを嫌ってのことだったのかもしれないが、昨日まで堂々とした姿だったその木が、切り株となった無残な様子を見て、憤りを感じたりもした。しかし、いつの間にか、大きな木がなくなった風景に慣れてしまっていた。
 昨日、ふと目を留めると、切り株の周りを囲むように、何本もの小枝が伸び、青々とした葉を繁らせている。
 この地で何十年も根を張り、大きな枝を天に伸ばして、太陽と雨の恵みを受け、風に耐えて生きてきた木は、理不尽にもある日、突然にばっさりと切り倒された。それでも、この木は死ななかった。小鳥に休息の枝を貸し、人に緑陰の安らぎを与えた堂々とした姿はもはやないが、それでもすべてを受け入れて、なお生きようとしている。
 あの日、私の人生も根元からばっさりと切り倒された。私はまだ、伸び伸びと枝を張っていたあの時代を忘れることができないでいるが、私もこうして、まだ、生きている。

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自分が全く無価値に思えてどうしようもないとき、綾夏の笑顔を思い出し、あの一瞬の笑顔のためにも、自分が存在した意味があるのだと思おう。

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 私は「かわいそう」と言われたくない。綾夏のことを「かわいそう」だと言われたくない。
 先日新聞で、息子をガンで亡くした僧侶有国智光さんという人が「誰かを『かわいそう』というとき、自分は高みに立ったまま安全圏にいる」と語っていた。
 明日、自分も大事な人を失うかもしれないのに、明日、自分も事故で障害を負うかもしれないのに、人はよく、自分を高みにおいたまま「かわいそう」と眉を寄せ、次の瞬間にはそんなことを忘れて笑い声を立てるのだ。

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何かに熱中しようとすると、終戦の日に聞いたかなづちの音がどこからともなく聞こえ、それを聞くととたんに気力が萎えてしまうという虚無感を表わした太宰治の「トカトントン」。
 私も何かをしようと自分を奮い立たせようとした次の瞬間、「そんなことをして何になる。どんなに努力してももう幸せにはなれないのに」という声が「トカトントン」のように聞こえてしまう。これも衣食住の足りたうえでの気取った苦悩ということか。

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職場で、子供の運動会の話をしている人がいる。運動会、七五三、遠足、家族旅行。昼間は同じように働いていても、家に帰れば全く違った生活があるのだ。それが彼らとの果てしないほどの距離に思えて、さりげなく席を立つ。

同僚が慌しく子供に着替えをさせ、朝ごはんを食べさせるはずのその時間に、私は綾夏の仏壇でお経をあげる。いつまでも5歳のままの綾夏の写真に「行ってきます」と声を掛け家を出れば、「普通の人」のようにふるまうが、何気ない日常のやりとりの中で、私が流す涙を人は知らない。