「球根」
  今年の秋もまた、球根を植えることができなかった。
  2001年秋。綾夏と私は、家のガレージで、チューリップやムスカリなどの球根を植えていた。「春には、お家の周りをお花でいっぱいにしよう」と私が言うと、綾夏は「お姫様のおうちみたいにする」とご機嫌だった。プランターを並べて、鉢底石を入れて、土を入れて・・・。しばらく作業していているうちに、ふと、静かになった綾夏がどうしているのか振り向いた私は、うずくまったまま、一心に球根を剥いている綾夏を見つけた。そのとき私は、思わず、「綾ちゃん、何してるの!だめでしょ!チューリップさんが痛い痛いでしょう!」と強い口調で叱って球根を取り上げてしまった。綾夏は一瞬、びっくりして目をまん丸にして、次の瞬間泣き出した。
  あのときの綾夏の悲しそうな顔を思い出し、自分が一つの球根を惜しんで叱ったことの後悔にさいなまれている。
  綾夏は、不思議だったに違いない。この小さな茶色い塊から、どうして芽が出て、葉が伸び、花が咲くのか。私は傍に坐って、あの子がどうしてそうするのか、聞けばよかった。その上で、綾夏自身がやめるのを待つか、あるいは、最後まで一緒に剥いて中身を確かめてみればよかった。
  2002年、最後の春、我が家の周りには春の花が咲き誇った。その前で私は綾夏の写真を撮った。それが最後の我が家のチューリップだった。
  秋になるとホームセンターの前に並ぶ春咲きの球根に、今年こそ植えてみようかと思うものの、次に買い物に来たときに決めようなどと思っては通り過ぎ、季節はそのまま冬を迎える。

  ひとにかけた自分の思いやりの無い言葉は、そのまま自分を苦しめる。
  亡くなる数ヶ月前、食欲のない父に、小鉢でチラシ寿司とお蕎麦を盛って出したところ、珍しく食が進んだ父が「これ美味しかった。もっとないの」と言ってくれたのに、私は、「もうない」と素っ気なく言ってしまった。「食べれてよかった。今日はもうないけど、じゃあ、またあしたも作るからね」となぜ、そう言えなかったのか。
  「今日は綺麗に掃除してん。あんたの部屋に行く階段もぜんぶ拭いたし」と言う祖母に私は「ふーん」としか言わなかった。「ありがとう。本当に綺麗になってて気持ちいいわ」となぜ、そう言えなかったのか。

  喪った人にかけた私の冷たい言葉には、どんな優しい言葉も上書きすることもできず、ただただ、私は、後悔に胸をかきむしる。