「人身事故」

7時過ぎのJR嵯峨野線に乗り、円町駅から京都駅に向かう。ブラインドを下ろして夏の光を避けながら体を窓に預けて眠りこける人、仕事の書類に目を通す人、つり革にすがりながら立ったままうとうとする人。多くの人が昨日の疲れを引きずったまま、いつものように今日もまた仕事に向かう。それぞれに、心と体に多少の不具合や痛みを抱えながら、いつものような一日がまた始まるのだ。
  そして京都駅。電車から吐き出された人々は、乗換え口へ、あるいは出口へと黙って流れていく。流れをさえぎるように立ち止まっているのは、観光客だ。通勤客は、観光客をかわしながら、体が覚えこんだままに、いつものルートを足早に行く。

  その朝、私もそうして、京都駅の琵琶湖線にホームにたどり着いた。
 いつも以上にホームに人が溢れかえっている。JR職員がマイクで人身事故を伝えている。いろいろな理由でJRは遅れるが、人身事故は一番時間がかかる。なすすべもなく、一層溢れかえる人の波と、
50分から60分、そして70分と遅延時間の延びていく電光掲示を見上げる。
  美しい快晴の夏空が広がる7月の朝に、自ら命を絶った人の苦しみに思いを馳せるよりも、背中ににじむ汗と、今日の仕事の段取りと、人の多さにうんざりして、「またか」と大きなため息をついた自分。溢れかえる疲れた人たちと、そしてその一人である自分も、もしかしたら、いつものルートを歩けなくなる日が来るかもしれない。そのとき、命を絶とうするのは今度は自分であるかもしれない不安を見ないようにして、人は、今の不快に、小さな舌打ちをする。