2002年11月3日
(子供を亡くした親の自助グループ「ちいさな風の会」会報「特集:わがことの別れによって生じた家族の思い」投稿文より)

空模様を気にしながら娘を送り出した梅雨の遠足。「いってらっしゃい」のことばに少し振り返って手を振った娘の姿が、最後だった。指折り数えた6歳の誕生日まであと2週間余りだった。

夫と、娘と私の3人暮らし。娘と産院から家に戻ったその日から、小さな彼女は我が家の中心で、大変な存在感で自分を主張し始めた。夫も私もはじめての育児に右往左往しながらも、ただ彼女の極上の笑顔を与えられんがために奮闘した。もちろん、その日々のなんと幸せだったことか。
フルタイムでの共働きで娘は生後6ヶ月を待たずに保育園に入園した。娘と過ごす時間は確かに限られていたけれど、夫と私はまず娘との時間を最優先した。娘が生まれた日まで私たち夫婦に残っていた恋人のような関係は払拭され、私たちは仕事を分かち合う同僚となり、困難をともに克服する戦友となった。夫にもわたしにも自分の時間は全くなくなった。小さなお姫さまにすべての時間をささげるべく、転居を5年間で3回繰り返し職場と保育園と家との距離を縮めた。娘がすべてだった。私たちのすべてだった。
娘は常に私たちの真中にいてその愛情を一身に受け、すくすくと成長していた。彼女は私たち夫婦の誇りであり、命であり、未来そのものだった。私たちは、子供との生活において、これまで私たちに意味のなかったものが生き生きと語りかけてくることを知った。例えば、子供はまだ風と、大地と、太陽と、木々とつながっている存在であり、子供を通して私たち夫婦は、生きることの本質的で原始的な喜びを取り戻した。私達は幸せだった。娘はそれに十二分に応えてくれた。

しかし、娘は去った。以来4ヶ月、輝かしい喜びに満ちた5年11ヶ月の日々を思い、また、これから目の前に広がっていたはず未来を思い、ただただ泣くばかりの毎日。この気持ちを悲しみなどと月並みな言葉では言い表せない。一日も早く娘のそばに行きたいと願うものの、たった一人の孫を失い茫然自失の老いた母を残しては、私自身逝くこともならない。

気力も体力も無くして、仏壇のそばに敷いた布団の中から、秋晴れの連休の青い空を、眺めていると虚しさに涙が止まらない。私はいったい今、何をしているのだろう。本当なら、大急ぎで洗濯と掃除を済ませ、家族でお弁当を作って出かけたであろうこんな秋の日。今は、夫が朝昼兼用の食事を作ってくれようと、包丁を動かす音がキッチンからしてくる。私は、赤いバスタオルを抱きながらそれを聞いている。新婚旅行でシュノーケルに行くとき持っていたバスタオル、そして、小さな赤ん坊だった娘を包んだバスタオルだ。最近では汗かきの娘の布団の上に寝る前に敷いていたこのバスタオルは、亡くなる前夜の娘の汗を吸っていたはずだ。今、もう川の字に敷けなくなった夫と私の2つの布団の真中に、あの日からいつもある。
私たち夫婦は、以前そうであったように2人になった。でも、以前そうであった2人にはなれない。夫の優しさは以前のままだけれど、寄り添おうとしても2人の間には娘がいた分の隙間ができた。この隙間から、まだ私は目をそらしている。

いつの日か、この気の狂うような悲しみの日々が、娘を優しく静かな微笑を持って思い出せる日に変わることがあるのだろうか。夫と私のもとにひととき舞い降りた天使との日々はかけがえのない宝物。なんと言ってもこの宝物を共有し、いつまでも大切にできるのは私たち夫婦だけだ。
娘によく似た幼女に一瞬目を留め、夫もまた同じように目を留めたのを見る。七五三の家族連れに会わないように神社を避けて遠回りする。タバコをすわない私たちだけれど、レストランでは子供の少ない喫煙席を指定する。何も言わないが、お互いに同じ気持ちでそうしている。このように通じ合えるのはやはり夫とだけ。
娘の思い出という宝物を抱えて、気の遠くなるような喪失感にただ、2人で耐えるしかない。