「時が流れるということ」

 新しい年が来るのが怖かった。2002年の半分は綾夏がいてくれた。あの子のいない新しい年を迎え、荒野にただ独り佇む思いがする。

 年々、体力も容姿も衰える。それを実感するようになっても、その私の傍らで、すくすくと伸び行く娘の姿があれば、それは苦ではなかった。私の命と文化を受け継ぐ存在があればこそ、私は自らの老いを意味する未来にも夢と希望を持てたのだ。綾夏の瑞々しい肌、つややかな長い髪、しなやかな四肢は生命力にあふれ、美しかった。そして、昨日できなかったことが今日はできるということ、あらゆる点で子供の毎日はその連続だった。綾夏は私の生きる喜びそのものだった。
また、私が美しいと思うものを綾夏も美しいと思い、面白いと思うものを綾夏も面白いと感じた。いつも感動を分かち合えた。赤ん坊の頃から私に抱かれ、私のそばで私の折々の想いをいつも聞いていたのだ。心が共鳴しあって当然だったのかも知れない。私自身、綾夏が生まれて、それまで目に留めなかったさまざまなものに感動できるようになった。
そんな綾夏が突然にいなくなり、私は未来を失った。

 我が家には2002年のカレンダーがそのままある。綾夏がいたあの頃のまま、何も変えずにいたいのだ。新しいものも極力買いたくない。綾の触れたものはそのままに。綾を抱いた服はそのままに。 あの日から半年もの時が過ぎたことが信じられない。一分だって綾を思わなかったことはない。

今は4月が来るのが怖い。私は頻繁に保育園にいる綾の夢を見る。今はまだ綾も仲良しのお友達も保育園児だ。4月になれば、お友達は小学生になる。私は小学生になった綾の夢は見ることができない。私の綾は保育園の年長さんのままだ。綾の魂だってきっと今は園に遊びに行っているだろう。でも、4月になったら綾の席はもうない。

 そして7月が来るのが怖い。毎日、「去年の今ごろは」と幸せそのものだった去年のことを思い出しているのに、7月2日からはそれが言えなくなる。

 時は流れる。なんて残酷なことだろう。私と綾を置き去りにして流れていく。
小さな綾の手の感覚が今でも私の手にはっきり残っている。いつも私が手を引いていると思っていた。本当は綾の小さい手に引かれていたのは私だった。未来に向かって引いてくれる手をなくして、私はもう一歩も進めない。