「母であること」

桜が咲いて、京都は観光客でにぎわっている。桜の下で写真におさまる人たち。幸せなんだ。私には桜が咲こうが何の関係もない。

今日は、病院の待合室でお母さんの横に5歳くらいの女の子が座っていた。綾と同じように長い髪の女の子だった。おかあさんとハム太郎の塗り絵をしていた。おかあさんが時々女の子のさらさらした髪をなでるたびに私の手にも綾の髪の感触がよみがえる。女の子を抱き上げてひざに乗せるのを見ると、私の手やひざにも子供の柔らかくもずっしりとした重さがなつかしく思い出される。日常の何気ない、当たり前すぎた幸せ。

まだ4月の初めだというのにコンビニのポスターに「母の日」の文字を見た。母であった昨年の5月。毎年手の込んだものになった綾からの手作りのプレゼント。それをくれるときの綾の満足な表情。母であることはなんという喜びであることか。

「親の心子知らず」などと、親の愛は子の愛よりも大きいようなことがよく言われる。でも、私はそんなのうそだと思う。母に対する子供のひたむきな思い。母の笑顔とやさしい言葉を、全身全霊で待っている。母の愛と賞賛を自信と自らへの愛に変えて子供は伸びていく。目を見て答えてもらえない子供の、「後でね」と言われる子供の心はぺしゃんこになる。

私は綾からどれだけ愛され大切にされたことか!こんなに愛したことも愛されたこともなかった。何度も綾の元に行こうという思いが頭をよぎったが、結局、綾にこんなに大切にされた自分が自らを傷つけることはできないという考えで9ヶ月生きてこられたのかもしれない。私は綾に自転車に乗ることも、不安定な椅子(その椅子で転んだことがある)に座ることも許されなかった。シンデレラのお母さんが死んでしまうお話しで「もしママが死んだら」といったとたんひれ伏して泣き出した綾をあわてて抱きしめたこともある。保育園のある先生に「なあ、先生、ママの宝物ってなんか知ってる?」と問いかけ「先生が「さあ、何かな」と言われると「綾なんやで」と答えたらしい。でも、綾の宝物もママだった。

「母の日」を母として迎えることのできる世界中のお母さんたちがうらやましくてうらやましくてならない。どうかその母である幸せを正面から受け止めて、子供の愛に応えてあげてほしい。