「南天」

隣の家にちょっと変わった夫婦が住んでいた。出かけるときは妙に派手なおばさんは、家にいるときは化粧っけもなく、つやの無い長い茶色い髪を束ねていた。多分50代でいつも荒れ放題の玄関先にごみ袋を積んでいて、野良猫に毎朝えさをやるのが日課だった。近所の人の話では旦那は一回り以上年下だそうだが、早朝から深夜まで、軽トラに乗って働いていた。時々、それは騒々しい夫婦喧嘩をするものだから、私は引っ越した当初は殺人でも起こるかと警察を呼ぼうかと思ったくらいだ。

 そんなお隣さんの玄関先には、一本の南天が植えられていた。エキセントリックなおばさんのことは意にも介さず、南天は淡々とそこで生きていた。南天の実はまん丸だ。日に当たるところ、当らないところがあるだろうに、栄養の行くところ、行かないところがあるだろうに、歪(いびつ)にならずちゃんとまん丸になって、正真正銘の「赤」という色合いで、冷たい北風を受けつつ平然と、ずっと、そこにいる。「ずっと?」「いつまで?」。そう、冬を過ぎた南天の実がどうなるのか、春の訪れに目を奪われて人は気付きもしない。

綾夏を亡くして2回目のこの冬。陽の光を浴び、風を受けとめ、雨の恵みを受け、雪の冷たさに身を固くし、まん丸に色づく南天の実に、神*が用意した自然が凝縮しているのを感じた。受け入れねばならない宿命を、生死という自然の理(ことわり)を受け入れられず、日々喘ぎ苦しむ私は、南天の実に神の意思を見た。
  いつしか、深夜に帰る旦那の軽トラが止まらなくなったなと思っているうちに、隣の家は先日、空家になっていた。そして、今、荒れ放題だった家は改装のために工事の人が出入りして、昨日、帰宅するとあの南天も根こそぎ無くなっていた。南天の居た小さな地面はコンクリートで固められていた。それを見て私は淋しかったけれど、あの南天は、これまでもそうであったように、ただすべてをそのまま受け入れて、引き抜かれたに違いない。まん丸の、真っ赤な実が、うちのガレージに2つばかり転がっていた。
  私は今日もまた、身を震わせて泣いている。あきらめられない娘の命と受け入れられない宿命を今日も嘆いている。

*神−万物を創世した意思を持った存在があるとすればその存在をここでは言っている