「さくらが咲いて」
花咲く春の盛りより、蕾の膨らむ頃が切なく苦しい。あらゆる生命が萌え出でようとするとき、帰らぬ命と過ぎた幸せを思うのが辛い。桜が咲いてしまえば、心は不思議とあきらめに満ち、華やかでいて儚(はかな)い花の景色を愛でようとすら思う。
何もかも変わらないのに自分と自分を取巻く世界だけ変わったと思い込み、疎外感を味わうが、本当は変わらないものは何もない。
綾夏がその下であどけなく笑ってポーズを取った平野神社の枝垂桜は、今年も紅色の花をつけたが、この花はあの日の花ではなく、今見る花はまた、来年咲く花とも違う。小学校にあがったばかりの1年生が真新しい大きなランドセルを背負って花の下を駆けて行く。毎年の4月の光景だけれど、今年見る子は去年の子とは違う。見える景色は同じでも、本当に同じということはありえない。何もかもひとつ残らず変わっていく。
私は来年も桜の季節を生きるのだろうか。たとえ来年もこの木の下に立って桜を見上げるとしても、今年の私とは違う私がここに立っているはずだ。来年の花のときをどんな思いで、どんな環境で迎えるのか、今は誰にもわからない。
綾夏と過ごした日々が遠くなるのが怖くて、時の流れに抗(あらが)おうとするから、辛くて仕方ないのだ。時は思いとは無関係に、ただ、さらさらと流れる。
早朝の神社の冷たい空気の中、地上では昨夜の宴の名残に焼き鳥の匂いが漂うが、空に近い桜の梢では、高い声で鳥が鳴き、ふいに羽ばたいては、桜の花弁を散らす。私もいつかこの肉体を脱ぎ捨てて、綾夏とともに花の梢で、花弁を舞わせて遊ぼう。保育園にいたる坂道が、散った桜の花弁で埋まるのを見て「ああ、さくらばたけ」と言った3歳の綾夏だったが、一面の桜を眼下にして、今度はなんと言うだろか。
綾夏の存在がなくなってしまったと思えば、私には綾夏と過ごした桜の季節の記憶しか意味が無いが、今もあの子の魂がそばにいると思えれば、今年の桜もまた、綾夏と私の思い出となる。