「6月雑感」

<家族の幻影>
 出生率が1.29に割り込んだとマスコミが騒いでいる。家の前ではしゃぐ子供の声に耳を覆い、子供を避けて買い物にもためらう私には、どこもかしこも子供がいるように見えるが、そうでもないらしい。
 確かに子供が居る世帯は減り、結婚しない単身者や、老夫婦、老人一人世帯が主流になってきているように感じる。しかし、TVコマーシャルのステレオタイプといったらどうだ。家族で囲む夕食の場面は食品のCM、若くてかわいらしいママ役の女性と幼児がでてくるのは洗剤のCM。子供の居る家庭だって家族4人(それはまたお決まりのパパとママと子供二人のパターン)で食卓を囲める家がどれだけあることか。幸せそうなCMの後に続くニュースでは、毎日のように子供への虐待、子供の犯罪・・・訳知り顔の識者の分析。
年金の試算では決まって、勤続40年の男性と専業主婦のモデル。そういう調査統計を調べてのことではないが、現実の流れとはどうも乖離している気がする。
 こんなことにいちいちこだわるのは、私自身が幸せそうな家族のモデルからはみ出てしまったからなのか。そういえば、わたしのような人間を、今流行りのことばでは「負け犬」と言うらしい。※コラムニストの酒井順子氏の著書「負け犬の遠吠え」

<夏に裏切られて>
 梅雨に入った。もうすぐあの日がまためぐってくる。
 私は夏が好きだった。母の生まれた7月14日、私の生まれた7月12日、綾夏の生まれた717日。楽しいことはいつも夏にあった。夏が近づくとうきうきした。夏が好きだったから妊娠したとき、娘の名前には絶対に夏の字を入れようと思った。
 夫と知り合ったのも夏だった。結婚したのは619日常夏のハワイだった。綾夏も夏が大好きだった。夏休みには毎年遠出をして長めの旅行に行った。夏草のように子供はこの季節に一段と成長した。
  2002619日、8回目の結婚記念日、私は二人目の子を流産した。それから2週間も経たない72日、綾夏は逝った。
 私は大好きな夏に裏切られ、夏が嫌いになった。私はいつの日かまた夏を自分の季節にできるだろうか。

<安らぎの島>
 心に致命的な傷を負い、ぼろぼろだけれど、他人にはそれが見えない。普通の人には何でもない言葉や出来事が傷口に沁みて何日も後を引く。ものの感じ方が普通の人とはずれてしまい、つらくてこの世界に身の置き所がない。

 子供を亡くした親ばかりが集まって暮らせる小さな島があればいい。そこでは普通の人に見せかけるための努力がいらない。隣の人も向かいの人も同じ傷を負っている。いつだって泣いていい。心を乱す子供の姿もない。つらくなるTV番組もない。誰も未来に執着がないから争いもない。四季も暦もないからあの日の記憶が傷口をえぐることもない。ただ安らかな気持ちで、誰も傷つけず誰にも傷つけられない。その日が来れば、苦痛だけを取り除いてもらい「よかったね」「今日までよくがんばったね」「おめでとう」と皆に送られて子供のところへ旅立つのだ。
 島は緑の茂る南の国がいい。植物も獣も人間も皆、自然に抱かれて、大地に還りエネルギーに変わりまた萌え出るという連鎖の中に無心に身を委ねると、成功したとか、充実していたとか、何を残したとかそんなことどうでもよく思えるに違いない。