「苦しみについて思うとりとめもないこと」

長い間、何の疑いも無く、人生は幸せと楽しみを追い求めるものと信じて生きてきたが、今は、生きることの本質は苦であると思う。喜びも幸せもそれは永続することは無く、すべては流転する。物も人の肉体も、それが作り出す関係も、いつかは無に帰する。
 仏教では人の苦しみの原因を四苦八苦というらしい。生老病死が四苦、それに愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦を足して八苦。苦しんでいる当人は、こんなに辛い苦しみは類稀れだと思うが、すべてはこの四苦八苦に収斂されてしまう。生きる時代を問わず、生きる地域を問わず、四苦八苦に苦しむ人間を乗せて地球は回りつづける。娘のいないこの世界は絶望に満ち、私はこの世が木っ端微塵に砕け散ればいいと思っているが、かけがえの無い一人娘を突然に亡くした悲しみさえも、ごく単純で平凡な苦しみでしかない。 しかし、自分を飲み込み、身動きすら出来ないと思える苦しみも、突き詰めてみれば、自分が感じているよりも実は大きくないのではないだろうか。まず、ひとつめには、苦しみは自分の内なるものであり、決して自分そのものよりも大きくはないということ。ふたつめには、苦しみの中の、かなりの部分が、自らが作り出した不幸の幻影であり、まだ実際には起こっていない不幸の先取りではないかということである。病気も別れもその予感を抱いたときから、不安は自分のなかで増殖する。最悪の事態に陥ってしまう様々なパターンを自分の中で作り出し、その影に怯える。

私達は何も持たず、何も着ず、歩くことも話すことも、与えられなければ食べることも出来ない存在としてこの世に生まれ、今もなお、一人では生きていけない存在でありながら、様々な人や物との出会いを得て、ここに在る。今までも、これからも、私が欲するものに出会うのでなく、必要なとき必要なものに出会うのかもしれない。
 不幸を先取りして自ら創った幻影を取り去り、与えられるものそのままを受け入れることができることが、苦しみを最小限にする方策ではないだろうか。

花の盛りの嵐の予報に、心そぞろになるのは人間だけで、花はただ今日を精一杯咲く。秋の訪れを愁うことなく蝉は短い命を鳴き尽くす。そんなふうに生きられればいい。
 生きることは苦しいが、この苦しみは永遠ではない。小学生の頃、楽しみにしていた夏の家族旅行の日はいつもはるか遠くに感じられたが、裏切られること無くその日は必ず来た。この世での務めを終えて、綾夏のもとに帰れる日も、今は気が遠くなるほど遠く感じるが、必ず来るのだ。その日まで、花のように蝉のように暮らせればいい。