「一人の秋に想うこと」

何を嘆くのか。喪した娘を嘆くのか。喪した自分の未来を嘆くのか。もし、後者の涙が含まれているのならば、あの日、私はすべてを捨てたはずなのに、まだ、自分の未来に執着するということか。今日が自分の最後の日であればいいと思っているはずの私が、まだ、今よりも良く生きたいともがいているとでもいうのか。

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今日もまた、自分ではどうしようもないことが、思うようにいかないと涙を流した。私が私であること、綾夏と出会って、綾夏と別れたこと。もっともっとさりげないいろんなこと。それらは私が選んだ結果ではない。ただ、与えられたこと。
自分でどうしようもないことになぜ、私は心乱すのだろう。それは愚かなことだ。「努力して切り拓けることに対しては努力できる強さと、受け入れざるを得ないことは受け入れる強さを、神に与えて欲しい」というようなことを書いていた本は、なんという本だっただろうか。本当に、そうだと思う。私は努力して切り拓ける道の前で座り込んだまま、受け入れざるを得ない事実を見つめようとせず、今日も苦しみにもがく。

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この宇宙の中で、私は一人ぼっちだ。くだらないことを沢山しゃべり、笑い声さえ立てているけれど、淋しくて淋しくてたまらない。広い広い宇宙を一人、カプセルに入って漂う気がする。
逆に、宇宙とつながっている気がすることもある。死期の迫った患者は、一片の木の葉に、小さな蕾に、宇宙を感じ、神を感じることがあるという。私もそんな気持ちになってしみじみと世界を見渡すことがある。

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綾夏が戻ってきてくれるなら、何もいらない。それだけが私の願い。でも、綾夏がいた頃は別のことに悩んでいた。仕事のこと、人間関係のこと。そんなことは、今の私にはどうでもよくなった。
お金のない人は、お金さえあれば幸せになれると思う。病気の人は、この病気さえ治ればと思う。仕事のない人は仕事さえ見つかればすべては良くなると思う。
あの日から今日までのうちで、一番泣かなかった期間は、母が脳梗塞で入院して、病院に毎日通った1ヶ月弱。悲しみに浸っている余裕がなかったから。悲しみや苦悩は、私の内なるものであり、決して私よりも大きくはない。それでも、今、悲しみは私の等身大。

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綾夏の好きだったテレビアニメが最終回を迎えると悲しい。裏切られた気持ち。まだやっているアニメを新聞のTV欄で確認するとホッとする。でも、決してその番組を見ることはできない。

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実家の近所の上品で美人だったおばさんは、いまやすっかりおばあさんになってしまって、呆けが進んで、自分の娘に「あなたはどちらさん?」と聞くらしい。人は、それを痛ましいことだと言うが、この世での一番の執着さえを脱ぎ捨てて天に召される準備をするということならそれは幸せなことだろう。私も歳をとれば、もう娘がいたことすら忘れるのだろうか。それは悲しく淋しいことだが、もう喪失を苦しまなくていいのだ。でも、迎えに来てくれる娘がわからないのは嫌だ。「ママ、がんばったね」と綾夏に手を取られて旅立つことが私の願い。

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もう終ったが、新聞でパラリンピックの記事を見て感動していた。運命に与えられた、あまりにも過酷な条件の中で、残された能力を鍛えぬいて、競技に挑む姿に励まされた。生きるということはすなわちそういうことかと。

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春の盛りの花のさざめき合いを、身を縮め、どきどきしながら聞いていた桜の葉っぱの子供達は、花がはらはら散るのを見て、「出番だぞ!」と踊り出た。柔らかな葉の黄緑は、優しい色合いながらもいのちの勢いに満ち満ちて、あっという間に初夏の空を濃い緑で覆い尽くした。じりじりと熱い夏の光を受け、緑陰はますます濃く、命短い蝉達を抱いて守った。そして秋を迎え、隣のどんぐりの木が青い実をたわわに実らせるのを見ながら、桜の葉っぱは今、早くも色づきながら散ろうとしている。そして、寒い寒い冬の間、死んだふりしながら、春を待つ。

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朝、窓を開けたら、あの日の空気だった。鼻腔につんとくる、澄んだ冷たい空気。あの日、お天気になったことにホッとしながら、キッチンの南側の窓を開け、朝の空気の中、熱いご飯をおにぎりにしていた。保育園の健康祭(運動会)の日。母なる誇りに満ちて、小さな娘の頑張りを期待し、「あちちっ」と言いながら握った沢山のおにぎり。あんな日は私にはもう来ないけど、あの幸せをありがとう。