「冬に向かう」
台風、地震と天災が相次いだこの秋。ニュースでは今も避難所や車で暮らす人々の姿を伝える。冬に向かうというのに、家や財産を無くした人の不安はどれほどだろうと思う心は、画面が、子供を捕らえた瞬間、全く違ったものになる。「いいじゃない、あなたには子供がいるんだから」。小さな子供を抱えての避難所暮らしの大変さ、子供がいるからこその、将来への不安・・・そんなことはよくよくわかりつつ、やはり私は心の中でつぶやく。「子供が無事だったんだから、それで十分じゃないか」と。
失ったもの、持たざるものを追い求めて、嘆きの日々を重ねる。その愚かさを知りながら、そこから抜け出るすべを知らない。
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11月だというのに、街はもうクリスマスのデコレーションで飾られた。色とりどりの電飾や金銀のモールに心躍った頃もあったが、今は、ただ空ろな虚飾の煌きに見える。デパートのウィンドウに飾られた、プレゼントの大きな袋を背負ったサンタと、金色の天使達を、路上でダンボールと毛布に包まる人たちは何と見るのだろうか。彼らの冷たい寝床の数十メートル先では、暖かな店内に高価な服や寝具や貴金属が並べられている。日本中、世界中から集められた食材が美味しそうな匂いを漂わせ、そして余った食べ物が惜しげもなくゴミになっている。
幼い頃、母の膝で聞いたマッチ売りの少女の話が、一層切なく哀しかったのは、彼女が暖かな部屋でご馳走を囲む幸せそうな家々の様子を窓越しに見ながら凍え死ぬということだった。キリストの誕生日を祝っていた幸せな人々は、寒さに震える彼女を見ない振りして聖歌を歌った。どうして、その扉を開き、少女を招き入れなかったのか、彼らにとってそれは何の犠牲をはらうことなくできた行為であったはずだと、幼い私は憤りを覚えた。
そして今。哀しいとか、辛いとか言いながらも、デパートで、あれも美味しそう、これもよさそうと買い物をし、両手いっぱいに紙袋を持って、路上に暮らす人々を見ないふりをして歩いている私がいる。何だかとても情けないけれど、どうしていいかわからず、とりあえずビッグイシュー買って、紙袋に突っ込み早足で歩く。
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「本当ならば」という言葉を使っていることを、同じように幼い子を亡くした人に指摘されて、はっとした。彼女もまた、しょっちゅう、この言葉を使うと言う。
「本当なら、綾夏は小学2年生だから」、「本当なら、今頃は年賀状用の写真を撮りに行っていたはず」
あんなに元気で聡明で優しかったあの子が、突然に、大好きなママに何も言わずに、いってしまうなんて本当であるはずがない。私にとっての本当は、綾夏と一緒にいること。
いつになったら、この状態を、本当のこととして受け取ることができるのか。こんな経験をしたことのない人は、いい加減に現実を受け入れて、新たな一歩を踏み出せと言うけれど、私は、死ぬまで「本当なら」と言いつづけるだろう。「本当ならね、私には今ごろ孫がいるはずなんだけどね。」「本当なら、私にはママ思いの娘がいるんだから、こんなふうに一人でいるはずはないんだけどね」