「それでも、クリスマスソングを歌おう」

11月を迎えた頃から、街にはイルミネーションが輝き始めたのを努めて見ないようにしていたけれど、クリスマスを目前にした今、街中が光で溢れている。最近は、一般の家庭ですらも、玄関先を色とりどりの電飾で飾り「幸せな家庭」を誇らしげに宣言している。
 ツリーの飾られたリビングでケーキを囲む家族の図や、レストランでプレゼントを交換する恋人達の図は、雑誌や広告に溢れている。イブの夜、人は自分もその図に倣うことで、今年のクリスマスも「勝ち組」で幸せに過ごせたことにほっとする。そう、私もその図の中で笑っていたのだ、あの日までは。
 しかし、この幸せと呼ぶ名の構図を構成しない人の方が、実はずっと多いのかもしれない。年末の残務に追われて終電で眠りこけるサラリーマン、病院の天井を見つめている入院患者、コンビニ前で売られるケーキを尻目に夕食を温めてもらう若者、地下街にうずくまるホームレス・・・サンタの格好のケンタッキーの店員は深夜一人で帰宅して万年床に転がり込むのかもしれない。そして、サンタさんのやってこない一人ぼっちの子供達が、この夜空の下にいっぱいいるに違いない。

 20041218日夜。たまたま通りかかった母校のキャンパスで私は立ちすくんだ。幾筋もの光が天に駆け上がっている、荘厳ともいうべき光景がそこにあった。しばらくして、それはキャンパスのメインストリートの真ん中に立つ大きな大きな杉の木に飾られた電飾であることに気付いた。私が18歳の時から、いや、ずっとずっと昔から、数え切れない若者達を黙って見守ってきた杉の木のクリスマスの装いだった。頂(いただき)は高く、円錐形に空に伸びて輝き、その光は今夜にでも本当の星になりそうな、そんな美しさだった。木の根元に立って見上げると、梢や葉の作る深い闇の間に光がこぼれて瞬き、私が独り占めしたこの聖なる空間に、私は私の愛する人たちの存在を感じるような気がした。
 幸せの構図を作れなくなってしまい、知らん振りしてやり過ごそうとしていた、あの日から3回目のクリスマス。悲しくて寂しくてたまらないけれど、それでも私は、クリスマスソングを歌おう。温かく柔らかな綾夏をひざに乗せて一緒に歌ったクリスマスソングを口ずさもう。そのとき傍らで、きっと綾夏もまん丸な口を開けて歌っているのだ。すべてを否定するのはやめよう。愛したこと、愛されたこと、出会ったこと、そして今も信じることができるということ、その喜びを抱きしめよう。今夜、泣いている人たちの幸せを祈って、歌うのだ。