「異界の住人」

 1月は思ったより大変だった。綾夏の誕生日と命日のある7月と、クリスマスのやってくる12月をやり過ごすのはかなりの苦痛が伴うことは覚悟していたが、クリスマスを乗り切ってほっとしたところに、やってきたお正月に見事に不意打ちを食らってしまった。随分気持ちが落ち込んだ。
 おめでとうという文字や家族の笑顔の溢れる年賀状が、そんなことに無縁になってしまった我が家にも束になって届いて、こんな家族をうらやましいと思う自分自身の惨めさに打ちのめされた。喪中はどうして1年ということになっているのだろう。子供を亡くした私の喪は一生明けることがないというのに、どうして我が家におめでとうという言葉を送ってくるのだろう。人に会えば、新年の挨拶をせざるを得ず、二度と「おめでとう」という言葉を口にしない私は「今年もよろしくお願いします」とだけ言って頭を下げる。

お正月休みが明けた頃から、新聞では連日、阪神淡路大震災から10年の特集記事。多くの人たちがあの日、突然に子供を失った。
 子供を失った親達は、その日から全く違った人生を歩むことを余儀なくされる。自分がこれまで漠然と信頼していた「自分の人生は守られている」という思いに裏切られ、未来をいうものをぷっつりとそこで絶たれてしまうのだ。あの日から、何年が経ったのか、そしてあの頃の笑顔のままでいる遺影の我が子が、今何歳になっているはずかを、親は片時も忘れはしない。あの日から10年が経つということを、誰よりよく認識しているだのが、それでも、親達は、あの日付けがまた来ることに気付かない振りをしようとして過ごしていたのではないか。私があの子の命日を迎えるときのように。あの、全身を貫く衝撃と慟哭のときに引き戻されたとき、自分はもうこの世に踏みとどまっていることができるかどうか自信がないから。しかし、マスコミは「私達はあの日を忘れない。私達はあの人たちを忘れない」などという見出しを付けて、あの日から10年だと騒ぎ立てる。忘れるとか忘れないという言葉は、意識に上らない時間があるから言える言葉ではないのか、一瞬たりとも、亡くした我が子を思わないときのない親にとって、我が子の存在は過去にならない。 
  誌面では、子供を亡くした何人もの親たちの言葉が綴られていた。その中に、今の自分より悲惨だと思える人たちを探してしまう自分の浅ましさ。
  二人の子供と夫を亡くした女性の記事が載っていた。「絶望の中で子供達の元に行きたいと思ったが、あのときの自分より、今は少し強くなれた」と言っておられた。この記事を読んで、「こんな境遇でも前向きに生きている人がいるのだ。勇気をもらった」などと言う人が大勢いるのだろう。彼女の過ごした10年の筆舌に尽くしがたい苦しみと、これからも果てしなく続く悲しみを理解することなく、そんな安っぽい言葉でまとめてしまうのだ。
  毎年、あの日に遺族に花束が送られてくるという美談。毎年、あの日に、クラスメートがお参りに来るという美談。それも新聞で何度か見かけた話だ。努めてあの辛い日付が巡り来ることを知らないふりしていたのに、あの時と同じ季節の花が送られてきて仏前に溢れる花の香りにあの日に引き戻される辛さ。日ごろ同年代の子供から目をそらせて暮らしているのに、その日、幼い我が子の遺影の前に勢ぞろいするクラスメートの成長した姿を目の当たりしなければならない悲しみ。それをきっかけに、明日から寝込むほどに気落ちするのに、それでも、笑顔で「ありがとう」と言わなければならないのだ。
  こんな気持ちを口に出せは、ひねくれ者だ、悲しみに心がねじれてしまったのだと言われるだろう。逆縁に逢った者は、無邪気な世間の常識というものになじめなくなる。私達はこの世から逸脱して、異界の住人になったのだろうか。