「楠木の下で

2月の平野神社の桜林をわたる風は冷たいけれど、日差しは日に日に春めいてきた。梢の先の固い芽も落ち葉の下の虫の卵も、ちゃんとそれに気付いていて、生まれ出るときを計っている。
 私の足元には、1年ごとに生まれ出でては命を終えるちっぽけな虫たちがいる。

そして、見上げれば、樹齢400年の大楠木。400回の春夏秋冬を繰り返し、数え切れない人々が詣でては、神に祈る姿をただ、見つめてきた。断ち切れぬ煩悩を抱き苦しむ人々や、平穏と無事を願い神にすがる人々の、ため息を吸い込んでは、浄化して清らかな風を吹かせてきた。朝日が楠木の葉からこぼれ、参道に揺れる。400年を生きるこの楠木にとっては、私は儚い虫のような存在かもしれない。泰然とそびえる楠木の足元で、見失った人生の、今日一日の長さを嘆く、命短い私はなんて愚かな存在か。

楠木は覚えているかもしれない。何百年か前に、小さな女の子と母親が幸せそうに笑いながらこの楠木の根元で遊んでいたことを。その母と子は、地に還り、また生まれ来ては親子になって、この木の下で遊んでいたが、今度はほんの少し先に女の子が地に還ったことを。そして、知っているはずだ。身もだえして泣きながら、先に逝かせた娘の冥福を祈る母親が、間もなく地に還り、また肉体を得ては、娘とめぐり合い、いつかこの木の下でまた、笑い声をあげるだろうということを。