「花の季節に」

早朝の平野神社で満開の桜を見上げる。無数の花弁が重なり合い、薄紅色の雲のよう。まだ朝も早いというのに、多くの人がカメラを構える。この一瞬のはかない美しさを留めようとするのか。あるいは、自分のものにしようとするのか。
虚しいことだ。私たちは、この時を、留めることなんかできない。そして、この世の形あるものの、何物をも所有することはできない。長年そばに置いているお気に入りの物たちも、大事な綾夏の形見の品も、家族の時を過ごした家も、愛でたり悩んだりした自分の肉体すらも私は所有しているわけでなく、いつかはすべてを置いて旅立つ。ただ、ひとつ永遠に私のものである魂に2005年の桜の美しさを刻もう。

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花のひとつひとつはため息が出るほど美しい。ひんやり冷たい繊細な花弁、均整の取れた形。数えきれない可憐な花の一つ一つを、妖精達が心を込めて作り上げたような見事さ。立ち止まって眺めていると、あの日の私たちのような幸せそうな家族の笑い声が背中から迫ってきて、にぎやかに私の横を過ぎていった。「あの日に戻りたい」と、涙が溢れた顔を隠そうとうつむいた私の目に入ったのは、小さな小さなはこべの白い花。数ミリの花もまた、完璧な妖精の仕事。待たれずとも、ここにも春を待っていた小さな命がある。


花さかじいさんの絵本を綾夏に読んだものだ。ポチは意地悪じいさんに殺されてしまうが、お墓から木が生える。木はどんどん大きくなって臼になる。臼はまた意地悪じいさんに燃やされるが、その灰は、枯れ木に花を咲かすのだ。「花は桜木、人は武士」と、桜の散り際の潔さに、日本人は美を感じたというけれど、それは武家社会以降のことで、枯れ木のようだった木に一気に花が咲く桜は「死と再生」の象徴ではなかったか。


がんばり屋の綾夏の母として、こんな私ではいけない、前向きに生きなければならないと、自分に言い聞かせてきたが、前を向いても希望を託せるものは何も無く、虚しさしかなかった。しかし、前向きに生きるということは、がむしゃらに突き進むのでなく、今日の喜びを見出しながら生きることだということばにちょっと救われた。桜の花に素直に美しいと感じられたこと、足元に咲くはこべの花に共に生きる命を感じたこと、おいしいと思って食事したこと。今の私にはそれで十分前向きということにしておこう。前向きに歩むそのゴールには綾夏がいる。