「電車事故に思う」

JR福知山線で電車が脱線する事故があり、107名の命が失われた。一命を取り留めた人の中にも一生、後遺症や障害と闘うことになる人たちがいることだろう。電車に乗っていたのは大学に向かう若い人が多かった。電車通学だから、下宿生ではない。自宅を「行ってきます」と、いつものように出たはずだ。母はそれが子供にかける最後の言葉になるとは思いもしないで「行ってらっしゃい」と言ったはずだ。そう、その言葉から2時間後に、永遠の別れをしたあの日の私のように。
 混乱、ショック、憤り、人生と自分を取り巻く世界すべての徹底的な否定。逆縁の、「悲しみ」というには、あまりにも暴力的で荒々しい悲嘆の中で多くの親が、今、もがいているだろう。中でも、まだ23歳の若い運転手の、母親に思いを巡らすとき、私の胸は詰まる。「運転手は、座席と運転台に下半身をはさまれ、右手を突き上げるような格好で亡くなっていたという」(2005429日読売新聞)。きっと、電車が大好きな少年だったに違いない。母親に手を引かれて電車を見に行っていた男の子は、やがて高校を卒業しJRに入社して、厳しい訓練を経て、夢いっぱいで運転席に座ったのだろう。初々しい制服姿は両親の誇りだったのではないか。しかし、彼は追いつめられ、何とかしなければとの思いで、スピードを上げた。運転席で人生の最後の時を迎え、その突き上げた右手で、彼は何をつかもうとしたのだろうか。
 彼はこれまでにもオーバーランをして、もう二度と失敗できない思いがあったのではないかとTVは報じる。当初は運転手に批判的だった報道は、彼個人のミスというには残酷な、JR組織や体質、体制の問題にも言及しはじめている。しかしながら、それは、JRだけの責任でもない。「数分の遅れがなんだというのか」という遺族の言葉やマスコミの論調は、このような事件があったからこそ発せられた。新聞から関連記事の消える頃、世間は皆、そんな言葉を忘れてしまうだろう。1分、2分が待てず、イライラし、電車は定刻が当たり前、世の中はすべて効率第一。効率が悪いモノは人間であっても切り捨てる。そんな現代社会を構成しているのは、間違いなく私たちであり、その意味では、加害者は私たち自身だ。そして、その加害者はいつでも被害者になりうるのだ。
 今回の事故で犠牲者と呼ばれる若者の親達が、(そんなものは欲しくもないかもしれないが)、世間で受ける配慮と同情。一方、犠牲者と呼ばれるには微妙な立場で、最愛の息子を失った運転手の母の悲しみが切なくつらい。

先月、私の職場の同僚が亡くなった。繁忙期にさしかかるころ、なかなか仕事の流れがつかめない彼女が「仕事のことが頭から離れずに眠れないことがある」と言ったことがあった。その時、「私もそうですよ」と軽く受け流してしまった。人件費の削減のためにぎりぎりの人数で、転びそうな人に手を差し伸べる余裕も無くして、私たちは自分自身の命を削っている。効率を追い求める生活の先に、いったい何を見出そうとしているのだろう。