「7月2日に記す」

今日、やっと5・6月のカレンダーを破った。7月2日が近づくことを知らないふりをしていたかったからめくることができなかったが、ようやく観念した。7月が近づくに連れて、気持ちは動揺し、体調を崩した。でも、思い出したくない2002年7月2日の最後の綾夏との時間を私は書いておかねばならないとずっと思ってきた。書き留めてしまえば、もう、人生で最悪のあの日のことを思い返し、反芻するのをやめにすることができるかもしれない。綾夏のいかなることも心にとどめおきたい私は、心のどこかであの日のことを忘れてはいけないと、あの日を反芻しているのかもしれないから。

あの日は、遠足の日だった。川遊びをするのを楽しみにしていた綾夏は、前日、自分でプールバッグを出して、伊勢丹で「ばあば」に買ってもらってまだ使ったことのないミニーマウスの筒型のバスタオルをバッグに入れていた。
  翌日は雨こそ降っていなかったが、曇り空だった。いつものように、NHK教育テレビの朝の子供番組を見ながら一緒に身支度した。登園前に、足首が痒いというので、見ると蚊に刺されたようになっていたので、かゆみ止めを塗って、外にでた。火曜日はゴミの日で、綾夏は、大きなゴミ袋をゴミの集積所まで持ってくれた。大きなゴミ袋が地面に触れないように腕をあげて一所懸命に運んでくれる姿がいとおしくて、「綾、ありがとう。ママ、助かるわ。綾は力持ちさん!」と褒めた。保育園の坂まで来たとき、綾夏は急に思い出したように「ママ、今日、お弁当入れてない?」と聞いた。その日は園でお弁当が出ることになっていたので「入れてないよ」と言うと、良かったというように安心した顔をした。私は「今日は水筒に氷を入れてあるよ」と、水筒を振って、氷がカラカラと音を立てるのを綾夏の耳元で聞かせた。教室に入った綾夏に「いってらっしゃい」と声をかけると綾夏はちょっと振り返って、いつものように手を振った。
 それから、2時間程後に、保育園から職場に電話があった。「綾ちゃんが倒れた」と。綾夏は遠足のバスの中でお友達に寄りかかるようにして眠るように、逝ってしまった。少し前まで、先生が、もうすぐ緑のトンネルがあるよ、と話すのをうなずきながら、楽しそうに聞いていたらしい。近くの病院に運ばれ心臓マッサージを受けているところに私はかけつけた。保育園の副園長先生が私を抱きしめた。病院の職員が私にしっかりするようにというようなことを言った。綾夏は、救急車で大きな病院に運ばれ、集中治療室に入った。尿がでているのはいいことだと言われたが、脳に酸素が供給されず、真っ黒になったと言われたとき、私は綾夏と築いてきた人生のすべてが、リセットされたのだと悟った。そして、程なく集中治療室で医師が綾夏のまぶたをめくって、綾夏の目を見たとき、私は、医師の宣告より先に、すべての終わりを知った。綾夏はもう死んでいた。あの生き生きとした目、様々なものを映し出した力に満ちた目ではなかった。その時、私の人生も、確かに終わった。
  水筒を開けてみた。綾夏の乾いた喉に滑り込むはずの冷たいお茶は一口もまだ飲んでいなくて、溶けていない氷がカラカラと音をたてた。

白い布で顔を覆われた綾夏を乗せた運搬用のベッドが、病院の出口に向かう長い廊下を看護婦に押されて行き、その後ろを私は歩いていた。私は思った。今だ、今、私は、病院の屋上に駆け上がって、飛び降りなければいけないと。でも、私はそれをしなかった。長い廊下を最後まで歩いてしまった。なぜだろう。夫と母を思ったのか、それとももしかしたら怖かったのか。わからない。私は生きてしまった。生き残ってしまった。それは地獄を味わうことだった。

  私は、あの日から、ずっと死について考えている。そんなことを「普通の人」に言うと、それはよくないこと、不吉なことのように言うだろう。「縁起でもない」と。
  受精のその瞬間から人は死へ向かっているという。生まれること、成長すること、老いることと同じように、死はまったく自然なことなのだ。生と死は正反対のものでも、隔絶したものでもない。それは、メビウスの輪のようにつながり、ともに同じように存在しているのではないか。
  子供を亡くした友達が、死とは、死ぬ本人よりも、残された者により大きな意味を持つのかもしれないと言った。死ぬ本人にとって死に意味があるとすれば、それは死そのものではなくて、死が迫っていることによって際立つ、生に意味があるのではないか。
  最近、身近な人が亡くなったと聞くと、「先を越されたな」と思う。そして、ふと小学校のときの情景が頭に浮かぶ。先生から、算数の問題が解けた人から順番に外に遊びに行っていいと言われたことがあった。私はそのとき、焦れば焦るほど問題が解けなかった。校庭に目をやると、もうクリアした友達が、燦燦と明るい日差しの降り注ぐ中、とても楽しそうにボールを追って走り回っていた。暗い教室で問題用紙を前にして座っている自分と、校庭でのびのびと自由に遊ぶ友達のまぶしい笑顔。
 人が死んだと聞くと、あのとき
のうらやましさを思い出す。自分が解くべきこの世での課題が解ければ、光り輝く世界に飛び立てるはずだ。だから、私は生きねばならない。この世が地獄であっても、この生を全うしなければならない。怖れるものも、執着するものもない。ただ、淡々と歩くだけだ。メビウスの輪はいつしかもうひとつの世界につながるだろう。