「夏の終わり」

2001年の夏の終わりに綾夏が保育園から握り締めて帰ってきた10粒の朝顔の種を、今年になって見つけて、祈るような気持ちで蒔いてみた。黒く小さな種の中で4年間眠っていた命はゆっくりと目覚めた。柔らかな土の中で根を伸ばし、産毛の光る若い芽は日の光を浴び、水を吸い、すくすくと育って、綾夏の誕生日を待っていたかのように花を開き、咲き続けた。
 今、夏の終わりを迎えて、花の大きさは幾分小さくなったものの、咲くのを急ぐように、花数は増え、次の夏のために種の房を膨らませている。綾夏の採った小さな種が、綾夏のいない2005年の夏を彩り、来年の夏にもその命をつないでいく。

その朝顔の葉の陰には、こどものバッタが住んでいる。葉っぱと同じ小さな緑色は、明日咲く蕾を数えようと、私が葉を触ったときに跳ねては、その存在を知らせていた。見る度に少しずつ大きくなってきたけれど、まだまだ小さなバッタは、秋の来るのを知っているだろうか。朝顔の葉陰の小さな命は、それを次に引き継ぐこともなく、秋風の中、枯葉のように落ちるのか。

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夏の休暇に、オーストラリアのモスマンからケアンズへ向う車で、周囲の森が焼け焦げているのを見た。その辺りは、ユーカリの森で、木に油分が多いので、自然発火して山火事になるらしい。大きな木や、勢いのある木は、木の幹を焦がしながらも生き延びるが、幼木や弱い木は焼けてそのまま立ち枯れてしまっている。しかし、火事に逢って初めて、地に種を落とすことのできる木もあるという。
 自然の摂理は、厳しく、同時に合理的だ。地に還るいのち、萌え出るいのち、それは、悲しむべきことでも、喜ぶべきことでもなく、ただ、それが自然なのだ。