「あきれたことに」

 2006年がやってきた。そして、あきれたことに、私の体は元気だ。中原中也は息子を亡くし、愛する者が死んだ時には死ななくてはならないと詩を綴り、その翌年にこの世を去った。私もこの世に永らえるはずがない、もうちょっとだけ我慢していればいいのだと思っていたのに、あきれたことにあれから3年半が経ってしまった。心は悲しみに固まり、息をするのにも、「あぁ」と声を出したい程だというのに、依然として私の体は温かく、脈打ちながら血は力強く流れ続けている。
  逝くといっても、まあ、少しは患うかも知れないかと思い、自分の入院用にと、一昨年のシーズンの終わりにパジャマを買った。たしか、入院用には前開きのパジャマが必要だったから。しかし、一向にその機会は訪れることなく、仕方がないので、先日、そのパジャマを使うことにしてビニール袋から出して驚いた。パジャマは胸元までがボタンで開くようになっていただけで、下までは開いていないのだった。折りたたまれていたのでちっとも気が付かなかった。覚悟の割には自分のやっていることの間抜けさに笑ってしまう。おかしな、悲しい笑い。

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200613日。冷たい風が窓を震わせ、弱い日差しが時々差し込む、ひとりの寒い部屋。
 体を作る温かな食事、
 本を読んだり歌ったり、心を育てる一緒の時間、
 夢を作る清潔な寝床、
 私が作ろうとしたもの、綾夏に与えようとしたもの。今、それらはすべてあの子には必要なくなってしまった。悲しみも苦しみもない、何の不足もない世界にあの子は行ってしまった。食事を作り、一緒に遊び、寝床を作ることで、満ち足りていたのは実は私だった。
 忙しく駆けずり回っていた子育ての日々にあこがれた「ひとりの時間」。今の私にはもう、それしかなくなった。