「春鬱」

 仕事帰り、うとうととまどろんでいた夜更けの京都行き列車。がたんと大きく揺れて、隣の座席に置いた荷物が私に倒れ掛かってきた。その重みに、綾夏が私にもたれかかってきた感触が蘇り、はっと目を覚ます。寄りかかっていたのは、書類の詰まった白い紙袋。

 あれから、5年近くが経って、綾夏が確かに私のそばで生きていたという実感が、悲しいことに遠ざかっていく中で、生き生きとその存在を思い起こさせる五感の思い出。

今日も一日、綾夏との幸せだった日が遠ざかり夢の中に埋もれていく。今日も一日、再会と安らぎの日に近づいていく。そうして、一日、一日を重ねていく。

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 これまではまだ暗かった朝6時。寝室の小窓から春の日差しが差し込むようになった。3月半ばに入って急に冷え込むようになったというのに、窓辺のパンジーは花房を増やし、桜のつぼみは
色づいてきた。ああ、また春がやってきた。
 窓の下、クラブの朝練に急ぐ高校生は、昨日よりも、より良い今日の自分を目指して、自転車をこぐ。
  私は、今日の意味など問わなくていいのだから、今日もやり過ごせばいいのだから、と自分に言って、寝室を出る。

   *          *         *

 毎月、第一日曜、母は、我が家を訪れる。80歳に近い母は、1時間半かけて、綾夏の月命日のお参りに来る。母は、いつも大きな荷物を抱えている。家に着くなり、どさりと荷物を置くと、その中からいろいろなものを出してくる。綾夏が好きだったヤクルトやヨーグルト。ポイントを貯めてもらった資生堂のポーチ、近所の人にもらったお土産のお菓子・・・次々出しては、私に差し出す。
 母は、いつだって大きな荷物を持っていた。綾夏を保育園にお迎えに行くときも、旅行に行くときも。そして、もっと、昔、私が子供の頃の母も、いつも大きな荷物を持っていた。母の荷物はいつも、自分のためでなく、子供のため、孫のために膨れ上がる。母の荷物からは何でも出てくる。薬、飴玉、ビニール袋、筆記用具・・・

 母は日記をつけている。母は、一人っ子の私が、独りぼっちで老いたときに、私の支えになるようにと、母もその道を歩いたのだと、伝えるがために、自分の老いの日を綴る。
  母を思うとき、その愛の切なさに私はいつも涙ぐむ。