「春鬱」
仕事帰り、うとうととまどろんでいた夜更けの京都行き列車。がたんと大きく揺れて、隣の座席に置いた荷物が私に倒れ掛かってきた。その重みに、綾夏が私にもたれかかってきた感触が蘇り、はっと目を覚ます。寄りかかっていたのは、書類の詰まった白い紙袋。
あれから、5年近くが経って、綾夏が確かに私のそばで生きていたという実感が、悲しいことに遠ざかっていく中で、生き生きとその存在を思い起こさせる五感の思い出。
今日も一日、綾夏との幸せだった日が遠ざかり夢の中に埋もれていく。今日も一日、再会と安らぎの日に近づいていく。そうして、一日、一日を重ねていく。
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毎月、第一日曜、母は、我が家を訪れる。80歳に近い母は、1時間半かけて、綾夏の月命日のお参りに来る。母は、いつも大きな荷物を抱えている。家に着くなり、どさりと荷物を置くと、その中からいろいろなものを出してくる。綾夏が好きだったヤクルトやヨーグルト。ポイントを貯めてもらった資生堂のポーチ、近所の人にもらったお土産のお菓子・・・次々出しては、私に差し出す。
母は、いつだって大きな荷物を持っていた。綾夏を保育園にお迎えに行くときも、旅行に行くときも。そして、もっと、昔、私が子供の頃の母も、いつも大きな荷物を持っていた。母の荷物はいつも、自分のためでなく、子供のため、孫のために膨れ上がる。母の荷物からは何でも出てくる。薬、飴玉、ビニール袋、筆記用具・・・
母は日記をつけている。母は、一人っ子の私が、独りぼっちで老いたときに、私の支えになるようにと、母もその道を歩いたのだと、伝えるがために、自分の老いの日を綴る。
母を思うとき、その愛の切なさに私はいつも涙ぐむ。