「そしてまた、バリ」  

  川田順造さんという人類学者が、西アフリカでの夜のことを書かれた文章がある。

「電灯もランプも無い西アフリカのサバンナ。月のない夜でした。半球形の星空の下で寝そ べっていると、ついさっきまで僕と僕とをとりまく平面が太陽という星に向いていたことが、特異で仮初めのことに思えてきました。

  人は、夜や闇を、光が失われた、何かしらネガティブなことと考えがちです。でも実際は光は闇から湧いて、ちぎれる気泡のようなものかもしれない。闇の中では、岩や小石まで息づき始める。僕の吐く息はバオバブの木が吸い、物陰に潜むネズミの息とつながっていると実感しました。人間の体は穴だらけで、世界とつながった開放系であり、変転する一つのプロセス(過程)である、と。」

 私は、この美しい文章を何度も読み返して、西アフリカのサバンナの濃密な夜の気配を想像した。
  光は生、闇は死。でもそれは相反するものではない。生は他の生とつながり、同時に死ともつながっている。生は死から生れ、一瞬の現象として在る。私は、生と死という現象を繰り返しながら、自分という存在を包括する宇宙のなかで常に存在している。
  肉体としてある私の体の60兆個の細胞が次々に死に、そして次々に生まれながら、そのことによって私という小宇宙が存在するように。

 このような感覚は、日本で日常を暮らす中では、周りの人々の死生観とはかけ離れている。死とは生の対極にあり、長生きがめでたいことであり、子が親を残して死ぬのは最大の親不孝であり、そして私は一人娘を亡くしたかわいそうな人間である、ということが常識の世の中で、私は自分を守るために世間の常識に敢えて抗うことのないようにして暮らしている。
  そんな自分を開放できる場所のひとつが、自然と人が、神と人が、隣り合わせで生きているバリなのかもしれない。そして、私は、今年も夏の休暇をバリで過ごした。



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 今年のバリ、ウブドでの目的のひとつは、ワルンソフィアで、恵さんにお目にかかることだった。
  ここ半年ばかり、私はワインを飲みながら恵さんの「ウブド極楽生活」というHPとブログを見るのが寝る前の日課になっている。HPによると恵さんは、ウブドに魅せられ、ウブドに移り住み、2002年にバリ人のご主人と結婚、2003年にはソフィアというバリの素材で日本料理を提供するワルンを開かれた。HPでは、彼女の視点からバリ人やウブドでの暮らしを紹介、ワルンソフィアに集まる人々の様子や日々の思いをブログに書き綴っておられる。何度バリを訪れても、私はバリらしさが演出された快適なホテルに泊まり、クーラーの効いた車の車窓からバリの暮らしを眺める旅行客でしかない。恵さんがHPで語られるバリの人々の生活や風習はとても興味深く読みごたえがある。また、恵さんが、バリの大勢の家族と地縁の中で、時には日本人の論理が通用しない日常の様々なことに驚いたり、憤ったりもしながら、ワルンを切り盛りし、豊かにたくましく生きておられる姿は実に魅力的で、HPのあちこちをついつい夜更けまでクリックしてしまうこともある。
  恵さんは、若い頃、日本でがむしゃらに働き、そして、32歳で癌を患われたという。癌は初期であり、治療により完治されたが、この病気が彼女の生きかたを見直す契機となった。今も朝から晩までワルンで働きづめなのには違いがないようだけれど、
「私はここで、『今までとは違う価値観で違う生き方』をしたいと思う。『できませんから 助けてください』『わかりませんから教えてください』といえる生き方。全部ひとりで背負い込まない生き方。自分が万能でないことを自覚して、助け合って生きていく生き方。
 で、同時に私は『もう病気にはならない』と決めた。もう自分を病気にさせない生き方をしよう、と決めたのね。」
と書かれている。
  恵さんの生き方、考え方は私には新鮮で目を覚まさされる思いことが多い。自分がいかに「こうあらねばならない」という凝り固まった考えで、自分自身を苦しめていることに気付かされるのだ。

バリに到着した次の日の夜に、早速、プリントアウトした地図を片手にワルンソフィアを訪ねた。方向音痴の私は、昼間のうちに、夫に電話をかけて行き方を再確認してもらっている。「早い時間は混みあうから遅めに来てね」と言われたが、段差の多い歩道と強引なバイクに神経を使う町歩きに早々に疲れてしまい、町角で客引きをしていたマッサージ店で足を揉んでもらったり、カフェでビンタンビールを飲みながら、何とか7時過ぎまで時間つぶし。
  それから、いよいよワルンソフィアへ向かう。町の中心地から少しずつ離れて暗くなっていくのがちょっと不安。歩道に滝のように水が落下している箇所もあったりしてさらに不安。急な坂道ではバイクが私の後ろにぴったりつけたように感じて振り向くと、ひげ面の悪そうなオヤジ。「何!?嫌!」と叫んだが、単に、坂が急でエンジンのパワーが負けて登れなかっただけみたい。そして、坂を上りきれば、そこにワルンソフィアが、写真の通り存在した。


  お店は地元に暮らしているらしい日本人たちや、ご飯を肴にビールを飲んでいる(?)不思議な欧米人たちで大いに賑わっていた。人間だけではない。壁や天井には、私の大好きなヤモリが10匹ほど、食事(コオロギ)にありつこうと張り付いている。料理はどれも美味しくて、そしてびっくりするほど安くてビールによく合う。
  店が少し落ち着いた頃、恵さんが「昼間、電話を下さった方ですね」と言いながら、私たちの席に来てくださった。恵さんは、元ダンサーだけあって、すっと背筋の伸びた綺麗な方だった。私は、今思い出しても赤面するが、恵さんお薦めのアラック(椰子の実でつくった蒸留酒)を飲みながら、初対面の恵さんに唐突に綾夏のことを話して涙ぐんでしまった。これでは、恵さんの言われる「違うイキモノ」の一種でしかなく、恵さんもさぞかし面食らわれただろう。しかし、恵さんの口からさらりと出た言葉は「それは、意味のあることなんですよ」だった。「スピリチュアルな言い方になるかもしれないけど、それは意味のあることなんですよね」と重ねて自然にそう言われた。私が娘を亡くしたことを知った人は大抵、聞いてはいけないことを聞いてしまったことに戸惑いながら表情を曇らせ、「どうして」だの「お幾つだったの」などと質問をして、「あなたは強い、私なら生きていられなかったでしょう」などという言葉を投げかけて、私は言ってしまったことを深く後悔する。でも、恵さんの反応は違った。恵さんは自然にさらりとそう言われた。私はそのことに救われた。それは運命に抗わず受け入れるというバリの人の智慧でもあり、また、これまで人生のいろんな辛いことをきちんと受け止めて意味のあるものにしてきた恵さんだからそうおっしゃったのだろう。
  私が、綾夏を授かり、綾夏と生き、綾夏を見送って、なおこの世に生きていることは、綾夏にとっても私にとっても意味のあることであり、また、そうしなければならないのだと、私はそのとき素直に思えた。

 「ものごとに執着せず、人を羨んだり憎んだり嫉妬したりせず、人に与えられるものは人に与え、人から与えられたものは感謝して受け取り、自分にうそをつかずに生きていきたいと思う」と恵さんは書かれている。私も、そんなふうに生きていきたい、と思う。


  夏休みが終わる。明日からまた睡眠不足で満員電車に揺られて仕事にいく。職場に着くと様々な種類の仕事が山積し、段取りをして取り掛かり始めたと思えば、別の案件が電話で、メールで割り込んできて、さらには下らぬ会議で時間が過ぎ、気が付けばもう夜、という日常に舞い戻る。明日も明後日も明々後日も、私は私の環境の中で、じたばたしながら毎日を送るだろう。
  疲れ果てて家にたどり着いてブログ「ウブド極楽生活」を開いてみれば、今日もウブドのあの急な坂の上のワルンで奮闘しておられる恵さんの姿があるはずだ。私はアラックの代わりにワインを注いで、「恵さん、今日も、お互いお疲れ様でした」とグラスを挙げるのだ。