「春の光の中の、薄汚れた私」

  深い悲しみを経験するほど、他人の悲しみがわかる優しい人になれるということをよく耳にするがそれは本当のことなんだろうか。本当だとすると、そうなれない私は悲しみが足りないのか、それとも心の醜い人間なのか。
  泣いている人を見ると、私の悲しみのほうがもっと深いのに、と思ってしまう。
  新聞記事に自分よりも「かわいそうな人」を知らず知らずに探してしまう。
そんな薄汚れた自分が惨めで嫌いだ。

  まだこんなに冷たい風が吹いているというのに、きらめき出した春の日ざしに、木々が目覚め始めた。死んでいたように見えた小枝の先に柔らかな黄緑の芽を見つけて、また、春を迎えるという当たり前のことに、気力を奪われる。
  カラフルなランドセルのチラシ、下宿を探す親子連れの姿、子供の入学式の話題に花を咲かせる同僚。そんなことを羨ましく思ってしまう自分が情けなくて嫌いだ。

  こんな気持ちで流す、私の涙は汚い。周りの人の優しさが、私を一層薄汚れた存在に感じさせる。人に弱みを見せたくなくて、笑顔で明るい自分を装っている私なのに、私を大事にしてくれる人に対しては、我が儘で、自分勝手で、きつい言葉を浴びせては、挙句の果てに「死んでしまいたい」言っては泣くのだ。

  あれから8回の春を迎えるというのに、私は何をしているのか。いろんな本を読み、新しい勉強もして、自分なりの生き方を模索しながら歩いてきたはずなのに、そんなことに何の意味も無かったのだと思わされる、ああ、美しい春の光。その中で鬱々としながら膝を抱える薄汚れた私。