「羅漢さん」

 嵐山のお寺に、8年前に寄進した羅漢さんを、初めて訪ねた。511ヶ月で逝った綾夏が生きた証をこの世に残したくて、綾夏と私たちの名を刻んだ。観光客で賑わう嵐山だが、8年前のその日は、ひっそりとして、牡丹雪が舞っていた。凍てつく空気の中で一番優しそうに微笑んでおられる羅漢さんを選んで、寄進の手続きをした。
  久しぶりにお会いした羅漢さんは、8年間の風雨に耐え、いい色になっておられた。  
  やがて、私と夫がこの世を去り、綾夏や私たちのことを知る人もいなくなり、いくつもの季節が過ぎて、時代が変わって、石に刻んだ私たちの名前も、羅漢さんの表情も読めなくなっていくだろう。苔むして、もうその表情もわからなくなっても、羅漢さんは路傍にひっそりと坐って、大堰川の流れを聞いておられることだろう。そんな情景を思い浮かべるとなぜか心が安らぐような気がする。

  嵐山は夫の実家に近い。私が休日出勤でいないときは、夫はしょっちゅう、綾夏を連れて行った。羅漢さんに会った帰り、嵐山を散歩しながら、この店で買うコロッケが綾夏は大好きだったとか、ここでボートに乗ったとか、夫は綾夏と二人だけの思い出を語ってくれた。「お仕事に行っているママのために、ママの好きな紫のを買ったよ」と言って綾夏がくれた小さな匂い袋を売っていたという店はもう別の店になっていた。

 あの雪の日、8年後の自分が生きていることを想像できなかった。激しい痛みのような悲しみと絶望に耐えてこの世に生き長らえることができるとは到底思えなかった。ただ、死ねないから、生きていた。しかし、ばっさりと切られた木が、その切り株の横から小さな芽、ひこばえを伸ばしてくるように、8年の間に、私も日常生活の中に小さな喜びを見出すことができるようになった。悲しみは絶えることなく、ため息と涙のない日は一生ないだろうけれど、風雪に耐え、微笑む羅漢さんのように、私の魂も深みのある色になっていけばいい。