「乗り換えの多い駅」
私は、仕事に行くときに米原行きという電車に乗る。帰りには網干行きという電車に乗る。その米原なる地も、網干なる地も知らない。このまま降りずに乗っていればどんなところに行きつくのだろうかと、ふと思いながらも、決まった駅に降りて、毎日毎日、毎日毎日、家と職場を行き来している。
田辺聖子のエッセイに、「乗り換えの多い駅」というのがある。
人生の中で出会う変化の中で、人は何度も乗っていた電車を乗り換える必要があるという。
「なるべく乗り換えずに終点まで行きたいと、人は想うけれども、時うつり事かわり、運命の転変、ということから人は避けられない」
「ことにその乗り換えが辛いのは人と死別したとき、また、愛を失ったときではなかろうか。(中略)その人といつまでも同じ電車に乗っていられる、と思い込んでいたのに、自分だけ、乗換駅で乗り換えなければならない」
「一人で乗り換えた支線は心細く淋しく辛く、いつまでも慣れない。ありし日の思い出、昔の夢に涙するばかり、あたりに気を配る余裕もないであろう。そのうち、ふと、涙のあい間に、窓の外の景色に目をやるようになる。外は快晴である。個人の悲しみなど知らぬ気に、晴れやかな眺め、それにふと心を奪われたとき、まさに、そのとき『乗り換えーー乗り換えの方はお急ぎ願います』という声。悲しみからやっと立ち上がった時、その人は、乗り換えて別の人生を生きるわけである。」
「たとえ、乗り換えの支線が気に入らなくとも、とりあえずは降りなくてはならないのだ。そしてようく考え、新たなる別の線の電車に乗る。これもいつまで乗っていられるやら、乗り合わせた人と仲良くなったといっても、終点までいっしょにいけるのは奇蹟であろう」
「」内は、『乗り換えの多い旅』田辺聖子著 暮らしの手帳社より抜粋
人生は、一人旅だ。夫婦だって、親子だって所詮はひと時、電車に乗り合わせた人なのだ。乗り換えの駅は突然にやってきて、「さあ、一緒に降りよう」と言うのに、実は乗り換えるのは自分だけだったりするのだ。
あの子を喪って今日で9年。私はまだ、次に乗る電車がわからない。
次の電車の隣の席にもきっと誰かが座っている。
次の電車の車窓にもきっと美しい景色が広がっている。
それを願って、なみだを流しながら、一人ぼっちで、大きな荷物を抱えてホームで途方に暮れている。この大きな荷物はこれからの旅には、もしかしたら必要ないのかもしれないと思いながら。