「蝉の声」

朝日が遮光カーテンの隙間から漏れ出す。
寝坊のできる日曜日の朝。
蝉が鳴いている。
無数の蝉の声が重なり、うなるように聞こえてくる。


 目を閉じて、蝉の声を聞いていると、ここにいる自分が、小学生の頃の夏の日の自分であるような錯覚を覚える。ここは実家の奥の畳の間で、台所では、祖母が麦茶を煮出している。私には軽やかな肉体があり、これから始める夏の一日はとても長いのだ。そんな小学生の夏休みの朝にタイムトリップしそうな蝉の声。

  あるいは、1996717日の蝉の声。あの年も梅雨明けが早かった。第2日赤病院の前の街路樹の蝉は実ににぎやかで、私は徐々に強くなる陣痛のなか、それを聞いていた。

 そして、娘が逝った2002年の夏の蝉の声。511か月しかこの世に生きなかったあの子。地中に8年も過ごすと聞く蝉は、娘よりも長い生を得、土から這い出して、最後の命を燃やしながら鳴いていた。私は起き上がる気力もなく、生きねばならないことの苦痛の中で、ただ蝉の声を聞いていた。


 あの時の蝉と、今鳴いている蝉とでは全く違う蝉なのに、蝉の声のうねりの中で時間と空間がぐるりと回転して、あるいは螺旋状に渦巻いて、私は軽い眩暈を覚えながらいくつもの夏を追体験する。