「童話」

女の子は空の上のまだその先の光の国に住んでいました。光の国はいつも暖かく、優しい風と音楽と花々に満ちていました。光の国の人たちはお腹がすいたり喉が渇いたりということもありませんでした。考えていることは口に出さないでもお互いよくわかったし、けんかをするということもありませんでした。

女の子は、その日、瑞々しい草の上に寝そべって遠い下の世界を見ていました。最初は小さな豆粒ほどにしか見えなかったけれど、女の子がもっと見たいと目を凝らすと、その光景を目の前で見ることができました。

下の世界では朝、寝床の中でおかあさんに起こされた男の子が「寒いよ、寒いよ、眠たいよ」と泣いていました。おかあさんは男の子を抱き上げて毛布にくるんだままキッチンにつれてきました。キッチンではスープから温かそうな湯気が立ち上っていました。おかあさんは男の子の着替えに手を貸しながら「外は雪だよ。温かいスープを飲んだら雪だるまを作れるよ」と言いました。男の子の顔がパッと輝きました。まもなく男の子は赤い毛糸の帽子と手袋をつけて外へ飛び出しました。北風が男の子のほっぺにふうっと冷たい息を吹きかけても男の子は平気で駆け回りました。そして時々空を見上げては次から次へとやってくる雪を見つめました。

別の日、女の子は下の世界に小さな女の子を見つけました。その女の子はもう夜更けだと言うのに目を閉じたまま泣いていました。細くて長い髪が、汗でぬれて女の子の額や首にまとわりついていました。女の子のおかあさんが、木綿のタオルでそぉっと汗を拭いて、白い粉をはたいているのが見えました。「こう暑くては寝苦しいのも無理はない」そう言いながらお母さんは女の子の背中を優しくたたきました。しかし短い夏の夜が明けて太陽が照り付けると女の子はお父さんの肩車で小川へ出かけました。女の子が小川へ飛び込むと水しぶきがあがり、女の子は大きな声で笑いました。女の子の長い髪はさらさらと水の流れにのり、水の中で四肢が白く揺れました。

光の国の女の子はそんな光景を飽きずに眺めていました。そしてとうとうある日、神様に言いました。「私も下の世界に行ってみたいの。」神様は首を横に振りました。「お前はまだこの国にいることになっている。その順番じゃない。」でも女の子は聞きませんでした。「ほんの少しだけでいいの。ほんの少しの時間だけ。」あんまり何度も何度もお願いする女の子に、神様もとうとう根負けしてしまいました。「じゃあ、6日間だけ」。

女の子は下の世界を覗き込みました。するとそこに男の人と女の人が見えました。二人はとても仲が良さそうでした。「そろそろ赤ちゃんが欲しいね」男の人が言うと女の人がうなずきました。女の子の体は輝く光の線になって女の人の体に入っていきました。

 

女の子は泣いていました。寒くて寒くてたまりません。体も自由に動かないし、眼もよく見えません。そして何よりもこの寒さや不自由さを誰に伝えることもできません。女の子は声を限りに泣き続けました。そのときふわりと浮かんだかと思うと暖かく柔らかいものに包まれていました。おかあさんの腕の中でした。「かわいい赤ちゃん。私のところに生まれてきて来てくれてありがとう。」女の子は泣くのを止めました。女の子は「あやちゃん」と呼ばれるようになりました。

下の世界は思ったより大変でした。お腹がすくことも、のどが渇くことも、寒いことや暑いことも、自分の思いが伝わらないことも、思い通りにならないこともこの世界にはありました。でも、あやちゃんは、「こうしたい」という思いがひとつひとつ自分次第でかなうようになるのが楽しかったのです。あやちゃんはハイハイして好きなところに行けるようになりました。たっちができるようになると間もなく歩けるようにもなりました。おかあさんとお話もできるようになり、自分の思ったことを絵に書くことができるようにもなりました。すると、それをいつもおとうさんとおかあさんが目をまん丸にして褒めてくれるのでした。あやちゃんはおかあさんのおひざでいっぱいいっぱい本を読んでもらいました。あやちゃんはおかあさんと毎日一緒に歌いました。あやちゃんはおかあさんといつも手をつないでいました。おかあさんはあやちゃんと過ごして初めて、空にはこんなに星があったことを、道端には名も知れぬ花が咲いていたことを、風は季節で香りの異なることを思い出しました。全部、子供のころには知っていたことだけれど、すっかり忘れていたのでした。おかあさんは、毎晩、歌うように言いました。「あやちゃんはママの宝物。あやちゃんはママの大事大事。」「あやちゃんの大事大事は誰?」もちろんあやちゃんは「ママ」と言ってその胸にしがみつくのでした。

あやちゃんは保育園のお友達と遊ぶのも大好きでした。お絵かきも得意だったけれど字もすっかり上手になって、毎日お手紙を書きました。あやちゃんはこのごろときどき、神様との約束を思い出すのでした。「そろそろ戻る時間かな。」あやちゃんは、おかあさんやおとうさん、お友達にいっそうたくさんお手紙を書きました。

そして光の国の6日間がやってくるころ、あやちゃんはおかあさんに「またね」と言い残して帰っていきました。あやちゃんはあっという間に光の国に戻りました。神様に「楽しかったよ。」と言って、下の世界をのぞいたあやちゃんは驚きました。大事なおとうさんとおかあさんは、見たこともないくらいやつれきって、あやちゃんの名を叫んで泣いていました。「そんなに悲しまないで。今までみたいに、またすぐに会えるのに」あやちゃんはつぶやきました。

おかあさんはあやちゃんの残した手紙を読んでいました。「ままがすき。あやがちいさいころからそだててくれてありがとう。だいだいだいすき。」それを読んでおかあさんは一層悲しそうに肩を震わせました。「もうすぐ6歳のお誕生日だったのに。」

次の日、おかあさんは、そっと家を出ました。おかあさんは、西に向かって歩き出しました。どんどん、どんどん、どんどん、どんどん歩きました。やがて空が夕焼けに包まれ、深い紫色になり、星が輝きました。おかあさんは歩くのをやめません。とうとう100回空が明るくなったり、暗くなったりを繰り返した日、おかあさんは天に通じる虹の橋のまでたどり着きました。虹の橋は7色の氷で出来ていました。おかあさんは、橋を渡ろうとしましたが、橋は高く、冷たく、きらきら輝きながらそびえていました。おかあさんは何度も何度もすべっては起き上がり、橋の下に転げ落ちては這い上がりました。おかあさんの手が凍傷で腫上がり動かなくなったころ、おかあさんは虹の橋を渡りきりました。

虹の橋を渡って、またおかあさんはどんどん、どんどん、どんどん、どんどん歩きました。そして100日が過ぎた日、おかあさんは雲の野原にたどり着きました。おかあさんが足をそっと雲の野原に踏み入れると体がぐらりと揺れて、そのまま転んでしまいました。雲の厚いところに足を踏み入れれば足が抜けず、雲の薄いところに足を踏み入れれば転んだりたちまち何メートルも下に落ちてしまいます。いくら進もうと思ってもなかなか前に進むことができません。おかあさんは、転んでも転んでもよろよろと立ち上がりました。おかあさんがもうまっすぐに立てなくなったころ、雲の野原を渡りきりました。

雲の野原を渡って、おかあさんはよろめきながらも、どんどん、どんどん、どんどん、どんどん歩きました。そして100日が過ぎた日、おかあさんは、星の河原にたどり着きました。真っ暗な広い河原のずっと向こうに天の川があるはずでした。おかあさんはそれを目指して歩きました。あたり一面は墨を流したような漆黒の世界で、風の動きすらありませんでした。おかあさんはごつごつした河原の石に足を取られ転びました。転んでも立ち上がっても、暗闇だけが広がっていました。おかあさんの目がもう見えなくなったころ、おかあさんは天の川にたどり着きました。

おかあさんの目はもう光しか感じなくなっていたけれど、急に暗闇が開け、まぶしい光の帯が大きなうねりとなって流れていくのがわかりました。そのとき、光の帯はおかあさんを取り巻きました。おかあさんの疲れ傷ついた体はふわりと浮き上がりました。そして目を開けたとき、おかあさんの目があやちゃんを捉えました。そこは光の世界でした。光は羽根布団のようにやさしくあやちゃんとおかあさんを包み、あやちゃんは声をたてて笑いました。おかあさんは細く柔らかなあやちゃんの体を抱きしめました。何も変わってはいませんでした。あやちゃんはもちろん、おかあさんの動かなかった手も、伸ばせなかった足も、見えなかった目も元通りでした。

おかあさんは、その瞬間にすべてを思い出しました。「私は知っている。私は忘れていただけ。私もここからやってきた。人は、自分の足で歩くために、愛を形にするためにしばらく旅に出る。そしてここへ帰ってくる。」おかあさんは、あやちゃんに会えたら言いたいことがいっぱいありました。でも、ここではそれを伝えることは必要ありませんでした。おかあさんの愛は光となってあやちゃんの胸に届き、あやちゃんの愛は光となっておかあさんの胸を満たしました。
「そのときがいつか来る。そのときが来たら戻っておいで。たくさんの愛で魂を満たして、この世界に戻っておいで。」そのとき、神様の声が聞こえました。

ベッドの中でおかあさんの睫毛は涙で濡れていました。おとうさんがタオルでぬぐおうとして、その寝顔がとても幸せに満ちているのに気づきました。そんなおとうさんとおかあさんをあやちゃんが光の精となっていつまでも見守っていました。     おしまい