「僕とあたしの未来 71」



「あれ?君・・・」と、オフィスのロビーで声をかけられた。
「あ・・・櫻井さん・・・」

思い出すと苦しくなるから、記憶の奥に閉じ込めておいた想い。
なんで今更・・・。

「こちらのかたは・・・?」
隣にいた松本先輩が、あたしにたずねてきた。
一緒に取引先に外出する矢先のことだった。

「こちら、あたしが異動になる前にいた本社で、いろいろとお世話になった
 櫻井さんです」
「はじめまして。櫻井です」
「どうも、松本です。彼女とは職場が一緒なんですが、とても気のつくいい子で、
 みんなにかわいがられてます」
「そうなんですか。昔からそうだよね、君は。今もみんなから好かれているんだね。
 よかった」

櫻井さんはほわんと笑った。お願い、そんな顔して笑わないで。


「櫻井さん、今日は・・・?」
「あぁ、ちょっと支社(こっち)の職場の方にご挨拶を、と」
「?」
「実は、退職願出したんだ」
「辞めるんですか?」
「おやじの会社手伝うことになったんだ。いずれは手伝うつもりでいたんだけど、
 それが少し早まってね」
「そうなんですか。じゃ、お父様も喜んでいらっしゃるでしょう?」
「・・まぁね」
「素敵な方とのご結婚も近いんじゃないですか?」
「そんなのまだまだ考えてないよ」
「お仕事頑張ってくださいね!どうかお幸せに・・・」
「今までいろいろとありがとう。君も・・・頑張ってね」

櫻井さんは、あたしの隣の松本先輩にも会釈して、軽く微笑んだ。


櫻井さんの背中がどんどん小さくなってゆく。

これでいい。これでいいんだ。


松本先輩がぼそっとあたしの耳元で言った。

「大人になると嫌でも嘘をつくことが増えていく。ビジネスでもプライベートでも。
 けど、自分自身の気持ちにだけは嘘をつくなよ」
「先輩・・・」
「よけいなお世話だったか・・・。ほら、外回り行くぞ!」
「はい」
「あ、やべ、資料忘れた!ちょっとここで待っててくれる?」
「わかりました」

先輩はあわててエレベータの方に戻って行った。



外回りを終えて職場に戻ると、残業してる人は誰もいなくなっていた。

「お疲れ」
「お疲れさまでした」

先輩は、デスクに座って作業を始めた。

「先輩、残業するんですか?」
「あぁ、ちょっと仕上げちゃいたいのがあるから」
「そうですか。それじゃお先に失礼します」
「おぅ、お疲れ!」


フロアを出ようとすると、スマホで誰かに電話している先輩が目に入ってしまった。
なんでなんにも関係ない先輩の行動が気になるんだろう?

あたしはドアの陰から先輩の様子を伺っていた。腕組みして座ったまま動かない先輩。

ふと誰かがやってくる気配がして、あたしは咄嗟に女子トイレに隠れながら、
フロアの入り口を見ていた。

すると、櫻井さんがあわててフロアに向かってやってきた。なんで?なんで櫻井さんが
ここに来るの?!

そっとドアの方へ近づいて、中の様子を見てみた。


松本先輩が立ち上がって、櫻井さんに会釈していた。先輩が櫻井さんを呼んだってこと?
もしかして昼間、先輩が忘れ物とか言って戻ったのは・・・櫻井さんにわざわざ声を
かけに行ったってこと?

距離が遠くて二人の会話が聴こえない。
あたしはしゃがんだまま、じりじりと進んで二人に近づいていった。


「わざわざ呼び出して申し訳ない」と先輩が言った。
「いえ・・・お話ってなんでしょう?」
「どうしても黙っていられなくて・・・おせっかいだと思ったんだが・・・」
「はい」
「あいつのことどう思ってる?」
「・・・・・」
「あんたのことムリヤリ忘れようとしてるあいつのことだよ」
「・・・・・彼女のこと・・・ですか」
「あいつはいつもあんたのこと想って、あんたの幸せをいちばんに考えて
 生きてきた。あいつはあんたへの想いを終わらせることができない。
 始まってさえいなかったんだからな。このままじゃあいつは前に進めないんだよ。
 始めるか終わらせるかはあんたの自由だ。俺がどうこう言える立場じゃない。
 ただ、あいつのことを少しでも想うなら・・・どうかこのままにしないでくれ」

「あなたは・・・彼女のことを大切に想っているんですね。それこそ僕なんか太刀打ち
 できないですよ」

「悪かったな、時間取らせて。これは単に俺の独り言だから。じゃ」


先輩がなんであたしの想いを知ってるの?なんでわざわざあたしのために?
大切に想ってるってどういうこと?
頭が混乱して、デスクの陰に隠れたまま動けなくなった。

櫻井さんがフロアを出て行った後、先輩も「あーぁ!」と大きなため息をついて、
足早にフロアを出て行った。

あたしはいったい何をしているの?あたしは自分どころか、先輩にも櫻井さんにも
きっと嘘をついてるんだ。



数日後、あたしは櫻井さんに電話をしてみた。携帯の番号が変わっていなければの
話、一か八かだった。
先輩にたずねたら、今の携帯番号もすぐ教えてもらえたかもしれない。けれどそれは
失礼すぎるような気がしてできなかった。

「もしもし」と優しい声で櫻井さんが出た。
「あたしです・・・」
「あぁ・・・この前はなんだかバタバタとごめんね。きちんと挨拶できてなかった」
「あの・・・・・ちょっとお時間取っていただけますか?」
「うん。僕も会って話そうと思ってた」


昔、一緒に外出した後、一度だけ帰りに寄ったカフェで待ち合わせることにした。
あたしにとっては、最初で最後、櫻井さんをひとりじめできる幸せな時間だった。

待たせては失礼だと、約束の時間の15分前には着いたのだけれど、櫻井さんは
もう着いて待っていた。

「遅くなってしまってごめんなさい」
「いや、僕が早く着きすぎただけだよ」

そういうところ変わってないし、そういうところ・・・好きだった。
だけど、誰にでも優しくて、あたしにだけ特別ってことはひとつもなかった。
あたしが勝手に想ってただけ。それでもよかった。想っていられれば幸せだった。

「この前、松本さんと話す機会があってね」
「・・・はい・・・」
「はっきり言われちゃったよ。君のことどう思ってるのか?って・・・」
「・・・・・・櫻井さん・・・」
「ごめん・・・どこかで君の気持ちに気づいていながら、僕は何も踏み出さずにいた。
 不甲斐ないけど、僕は君の優しさに甘えてただけなのかもしれない。ごめん・・・」
「いいんです、あたしは」
「・・・」
「謝らないでください。いいんです。あなたにはお父様の会社を受け継ぐ大きな将来が
 あるんですから。きちんとしたお家柄のお嬢様とご結婚されて、お幸せになって
 ください。お父様お母様もきっとお喜びになるでしょうし、あたしも・・・・・
 あなたの幸せを心から祈ってます」
「・・・待って・・・」
「あたしは大丈夫ですから!じゃ、お元気で!」

あたしは今できる限り精一杯の笑顔で、櫻井さんにさようならと告げた。


せっかく先輩からアドバイスをもらったのに、あたしは嘘をついた。
いや、嘘かもしれないけれど、心の底から願ってることでもあった。

これでいい。そう決心して別れたはずなのに、やっぱり涙が止まらなかった。


坂の上にあるマンション。通りから見上げると、先輩の部屋、明かりがついてる。
珍しくもう帰ってるんだ。


家のドアを開けようと鍵をガチャガチャしていると、隣の部屋のドアが開いて、
先輩が顔を出した。

「よぉ」
「・・・・・櫻井さんに・・会ってきました」
「そっか」
「なんで・・・先輩知ってたんですか?あたしが櫻井さんのこと・・・・・」
「おまえ見てりゃすぐわかるわ!・・・・・つーか、おまえんち泊まった・・
 いや、泊めていただいた(^_^;)時、夜中一度だけ目が覚めたんだよ。そしたら
 おまえ、寝言言ってた、さくらいさん・・って」
「・・・・・・・・・」

先輩に聞かれてたんだ・・・。え?目が覚めたってことは、自分がどこにいるのか
わかってたってこと?
翌朝寝ぼけて言ってたことは嘘?!あぁもうやっぱり策士!

「で?ちゃんと言ったのか?ヤツに」
「・・・・・本当のこと言ったけど・・・半分嘘ついちゃいました」
「ったく、バカか、おまえは」
「先輩・・・・・あたしやっぱり嘘ついちゃったよ・・・」

苦笑いしているうちに、涙がどんどん溢れてきて、うわぁぁぁんと大声を上げて
泣いてしまった。

「バカ、近所迷惑だ、こっち入れ!」
先輩は背中を押しながら、自分ちの玄関にあたしを押し込んだ。

「ったねぇな、鼻出てんぞ!」とあたしにティッシュを渡しながら、
「でもまぁ、よく頑張ったな」とあたしの頭をぽふっと撫でた。

なんだかすごくいい匂いがする。先輩からふわっといい香りがするだけじゃなく、
とてつもなく心地よいおなかをくすぐる匂いが。

「今、メシ作ってんだけど食べる?」
「うん」
「食えるくらいなら大丈夫だな」と先輩は笑った。

とろとろふわっふわのオムレツ。あたしは何度やっても固くなってしまって
上手く作れない。
やっぱりフライパンを扱うのは、男の人の方が向いてるのかな。先輩の指長いし。
その長い指先で、ちょこっと味見をする先輩に、胸の奥がきゅんと音を立てた。

ランチョンマットを敷いて、カフェで出てきそうなお皿にのせて、ベビーリーフの
サラダを添えて・・・センスいいんだなぁ、先輩。

「いただきます」
二人で手を合わせて、ふわとろオムレツを口に運ぶ。

「おいしい〜☆先輩、料理上手なんだ♪すごい☆」
「まぁな。おまえよりは上手いと思うよ?」
「ひどーい!あたしだって得意なものくらいあるんだからね!」
「あのさ・・・」
「?」
「おまえ気づいてないかもだけど・・・タメ口になってんぞ?」
「・・・!!」

なんで?なんでだ??

「すみません・・・」
「いいってば。逆に変だよ。なんかさぁ、今までずっと気を許してもらってないって
 いうか、他人行儀すぎて、信用されてないのかなぁって思ってた」
「他人は他人・・・ですよね?(^_^;)」
「敬語に戻すなよ?フツーにしゃべれよ!バカ」
「いっつもヒトのことバカバカ言って!もうっ!!」

先輩を叩こうとした手を、ぎゅっと握られた。

え。あ。これは・・・。

「まだメシの途中だ。続きはメシのあとで」

謎解きはディナーのあとでみたいなノリで言われたけど、続きって・・・・・。
また、胸の奥がきゅんって音を立てた。

「先輩はなんであたしのことよくわかるの?」
「おまえ、わかっててわざと訊いてるだろ?!」

いつもクールに見える先輩の耳が赤くなっていた。

あたしは、遠回りしても必ず前に進んでいける。先輩のおかげできっと。






なんとなく勝手にBGM : 「Are You Happy?」より「Daylight」