「絆」 〜空の上の決心〜


午後11時半、彼にTELするのが日課になっている。
帰宅してごはん作って食べて、お風呂入って、なんてやってるとやっぱりこんな時間になってしまう。
実はまだ、ケータイのナンバーを押す手がちょっと緊張している。

彼とはほんの2ヶ月ほど前、花火大会の日に知り合った。人生最悪な心理状態で。

プルルルル・・・彼を呼ぶTELの音。
「もしもし?」
1コールで出る彼。待っていてくれるのがよくわかって切なくなる。
「私です・・・」
「いやー、さっき思わず眠くなってしもうて、出られへんかも?!思って焦ったわ」
「ごめんなさい、毎晩付き合わせてしまって」
「そんな、長々と話すわけやないし、それよりなにより嬉しいんやから・・・」

どうしてこんなふうに素直に言葉を発せられるんだろう?
私にはとても言えなかった。だからあの人とも心がすれ違ったのだ。
彼にTELしているのに、彼のことを大切に想っているはずなのに、私はまだあの人のことを
引きずってるの?

「明日ワシも休みやからどっか行かへん?」
彼の元気な声が、私の心を締め付ける。
「・・・え、うん・・・」
自分の心の奥底に嫌気がさし、あいまいな返事しかできない。なんて身勝手な女なんだろう。

「どこがええかな?」
「・・・海が見える観覧車に乗りたい・・・」
とっさに私は口にしていた。

海が見える観覧車・・・それはあの人と行ったことのある場所。

「海が見えるって、どこの?」
「横浜」
「そうか、せやったら中華街でメシ食おうかー?」
「・・そうね」

私はそんな場所に行ってどうしようと言うんだろう?

楽しそうな彼の声を、素直に受け止めてしまう自分が許せない。
幸せになることが怖かった。
いつかまた壊れてしまうのではないかって・・・。



          * * * * * * *



翌日は、私の心とは裏腹に快晴だった。

待ち合わせ時間より10分前に着いた私だったけれど、彼はもう待っていた。
「30分も前に着いてもうたわ」
「ごめんなさい、お待たせしてしまって・・・」
「いや、ワシが勝手に早く着いただけやから謝らんでも・・・?ワシ、おおざっぱなんよ。
どれだけ時間がかかるのんかようわからんから、えらい早く家を出てまうんやろ、きっと」

そう言いながら、たぶん彼は早く着こうとちゃんと考えてたんだと思う。
カバンのすみっこから横浜のガイドブックがのぞいていた。
いつも自分のペースで、人に合わせるってことを考えもしなかったあの人とはまるで違う。
こんなとこでもあの人と比べてるなんて、彼に失礼だよね・・・。

「実はな、横浜ってよう知らんから、ガイドブックなんて買うてしもたわ」
歩きながら、カバンから取り出してわざわざ見せてる。本当に素直な人。
「山丘さんって正直なんですね・・・?」
「ウソつくのヘタやからなー、すぐバレるし」
「じゃ、浮気したらすーぐわかっちゃったりして?」
「ワシは浮気はせえへんよっ!!」

その顔が妙にマジメだったから、なんだかおかしくてつい笑ってしまった。

「なんや、めっさマジに言うたのに、笑うことないやろー?」
「ごめんなさい、だっていきなり真顔なんだもの・・・」
「浮気せえへんなんて言うワシのこと、信じられへん?」

え・・・。思わず立ち止まってしまった。何気ない顔で、時々ドキッとするようなことを言うのね。

「そんなこと、ない・・・」
ちょっと伏目がちになった私に
「あ、ごめん・・・さっきからワシ、何言うてんねんなー?ははは・・・」
そう言って笑って、そっと私の手を取り歩き出す。

「とりあえず何か食いましょうか?」
「ええ」
「どっかいいとこ知ってます?結局ガイドブック役に立ってへんなー」
「あの、私食べてみたいのがあるんですけど・・・」
「なに?」
「ぶたまん」

中華街のごくふつうの店先で売られてる中華まん。
アツアツなのをふーふー言いながら少しずつ食べていく。今日なんかまだ汗ばむくらいの陽気なのに、
よく私に付き合って食べてくれるよね。

「これ、うまいわ!」
「一度、歩きながら食べてみたかったの」
「中華街で他には何がおいしかった?」
「・・・う・・ん・・・」
彼は、何かまずいことを聞いてしまったのかというような顔をした。
「・・・食べたけれど、ちっともおいしいって思えなかった。高級な中華料理屋さんだったけど
 私には不似合いで、しかも緊張してるし・・・」
そこまで言ってやめた。
「『あの人』と来たんやね・・・。じゃ、ノド通らなかったわけやなー!」
彼が、幾分明るい口調で言ってくれたのがわかる。
「でも・・・今日あなたと食べたぶたまん、すごくおいしかった!!あなたってね、なんだか・・・」

彼が私の肩を引き寄せた。私は彼にそっともたれかかった。
「あなたってあったかい・・・」
「そうかぁ?じゃ、もっとあっためたるわ・・・」
中華街の真ん中で、彼は私をぎゅうっと抱きしめた。



          * * * * * * *



中華街で食べたものと言ったら、他にはクッキーみたいなお菓子でしょ、それから・・・って
まともにお店で食べてないじゃない?!
雑貨屋さんで、かごやら小物やらアクセサリーやら、他のとこにもあるようなものばかりのぞいてしまう私。

すると、彼はあるコーナーの前で立ち止まってる。
「これ、ええなぁ・・・」
視線の先には真っ赤なチャイナドレス。
「きみ、似合うんとちゃうかなー、思って・・・」
なんだか彼の目が不自然。
「あ、別にヘンな意味やなくて・・・純粋に似合うんやないかなって思っただけやでー?」
「ウソ、目が泳いでる」
「ごめんなさい、ウソつきました・・・」

本当にウソつくのヘタな人。


今日のいちばんの目的だった、観覧車をめざす。
あの人と乗った観覧車に彼を乗せるなんて、私は気持ちを秤にかけようというのだろうか?

澄み渡った空。地上がゆっくりと遠ざかる。
向かい合わせて座った彼の前で、想いがふとよぎった。
追いかけるばかりで、愛するばかりで、愛されるのに慣れていない。
そのくせ愛されることを求めてる。

音のない世界で時だけが流れてゆく。彼も私も押し黙っている。
私がはしゃげばこの空気も和らぐのに・・・できないでいる。
すると彼の方が、空気を振り払うかのように口を開く。
「あの・・・」

観覧車の中で、二人きりの狭い空間の中で、彼は言った。
「ワシと一緒になってください!二人で生きてください!!」
時が来ればいずれ、彼の口から発せられるかもしれないと思っていた言葉、わかっていても重い。

いつか母が言っていた。
「この人の子供が産みたいって人が現れるわ、それがその人よ」
母は、そう思ったのに産めなかった。だから望まれて、私は母のもとで育てられた。
どんなにか辛い想いをしたことだろう。
好きな人の子供・・・好きな人の・・・反芻するように思い描くと、そこにはあの人ではなく
彼の顔が浮かんできた。そう、目の前にいる彼の顔が・・・。

「すぐに返事をくれなんて言いません。ゆっくり考えてください」
彼はいつものほがらかな顔ではなく、本当に真顔だった。
「・・・私と生きてくれるんですか・・・?」
私はやっとのことでそう言った。
「え、それってOKってこと・・・?」
「・・・はい」

観覧車が揺れるんじゃないかって心配になるくらい、彼は小踊りして喜んだ。
本当に感情を素直に表現する人。
「ホンマはワシ、高いとこ苦手なんや。せやけど今日はそんなんどうでもええ!
 きみと一緒にいてるだけでワシは・・・」

結婚というのは、今みたいな恋の感情の起伏は味わえなくなるものかもしれない。
その代わり、穏やかな海のような安らぎを与えてくれるのだろう。

「あなたといると安らぐの・・・」
私は思ったことを口にして、彼の胸へ沈み込んだ。
燃えさかる炎のようだった昔の想いを、彼の言葉が静めて洗い流してくれる。
逃げ出したいと差し伸べる私の手を、彼が救い上げてくれる。

そのまま私の背中を包み込む、彼の手のあたたかさ。
そして顔を上げた私は、そっと瞳を閉じる。
音すら消えた空の上で、私たちは気持ちをひとつひとつ確かめるように、唇を交わした。

きっと人によっては、早急すぎるとか、甘いとか、言う人もいるに違いない。
けれど、決めた。私はこの人と生きてゆく。
私の心が、彼を苦しめることもあるかもしれない。顔も見たくないと言われるかもしれない。
それでもこの人と生きてゆく。

「将来のきみが振り返ったら、今日はどないな日になるんやろなー?」
彼が聞いてくる。
「うーん・・・空の上の決心の日、かな?」
私は雲ひとつない空を見上げてから、彼ににっこりと微笑んだ。