「ぬくもり」 〜 こよひ、花酔ひ 〜



桜の花も見頃をかなり過ぎた、ある日の晩、僕は原稿にまたも行き詰まっていた。
コーヒーを飲む。部屋の中をうろうろする。ソファに沈み込む。
音楽を聴く。窓辺に立ち、ぼんやりと外を眺める。
・・・・・・・遅々として進まない。
こんな日はダメだ。僕は思い切ってPCの電源を落とした。


2杯目のコーヒーを淹れようとして、フィルターが切れていることに気づく。
近くのスーパーは閉店間近な時間。ああ、めんどくせぇ!
僕は、やれやれと再びソファに深く滑り込んだ。



携帯が軽いメロディーを奏でて止まる。
ふと見ると、ブルームーンのカクテルのようなライトが点滅して、メールが届いたことを
知らせている。


『今、駅。家まで夜桜でも見ながら帰るつもり。
 瞬介は原稿書きで忙しいかな?
 よかったら瞬介もどう?      栞より』


迷わず僕はウィンドブレーカーを羽織る。今、駅なら、走れば途中で栞に出くわすだろう。



シャッターが下りかけているスーパーを横目に走り、20メートル先のコンビニの角を曲がる。
そのままひたすらまっすぐ行けば、栞と僕が利用している共通の駅だ。
行き交う人が振り返るほどの全速力で、僕は、栞が帰るはずの道に向かって走り続けた。



(あ、やっぱり)という顔をして、少しはにかむようないつもの笑顔が見える。


「はーっ、間に合ったー!」
息を切らしながら、僕は栞に駆け寄った。
「そんなに急がなくてもよかったのに。どうせゆっくり歩いて帰るつもりだったんだから」
栞が、お疲れさまと言わんばかりに、僕の肩をぽんぽんと叩く。



僕らの夜桜ポイントとなる公園までは、ほんの5分ほど。
公園は小さめなのだが、そこには大人ひとりでは抱え込めないほどの幹の桜の大木がある。


僕らは二人並んで、公園までの道のりをのんびりと歩いた。



見頃を過ぎた桜の周りには、無数の花びらが散らばり、無機質な蛍光灯の光だけが
ちょっぴり淋しくなった桜を照らしていた。


近くにあるベンチに並んで座り、黄緑色の葉が見え隠れする薄桃色の花たちを見上げる。


「風はまだまだ冷たいね」
そう言って、栞が僕に寄り添った。
栞と顔を見合わせると妙に恥ずかしいから、横顔だけちらっとのぞき見して、
僕は、栞の肩をそっと引き寄せた。


残った花たちが、生涯を終えるようにはらはらと舞い落ちる。
僕たちは言葉も交わさないまま、ただじっと桜を見上げていた。


なぜか涙腺が緩みそうになって、慌ててごまかそうとすると、栞が突然
「ったー!目にゴミがーっ!」
そう言って目を押さえた。
「どれ?」
僕は半分出かかった涙をひっこめながら、栞の顔をのぞき込む。
「ちょっとよく見せて?」
「うーん、目が開けられないー」
僕の目の前には、栞の顔がある。これって・・・究極の少女コミックの図だな。
そう思ったら、なんだか急におかしくなって、僕は笑い出した。


「なによぅー、なんで笑うのよー?」
「いや・・・ごめん、なんだかおかしくてさ・・・アハハハ!!」
「ひどいヤツー!左沢瞬介先生はいじわるな人だったんだー?!」
「ごめん・・・ははは」
「ひどい・・・」
栞の声が急に小さくなった。


僕は焦った。笑いすぎたか?
「あ、いや、目にゴミが入ったとかああいう図がさ、なんだか少女マンガに出てきそうな
 シーンだなって思ったら、なんかおかしくなっちゃって・・・いや・・・ごめん」
しどろもどろに答える。
「・・・・・・・」
「栞・・・?」
再び栞の顔をのぞき込む。


顔の角度が一致したかのように・・・栞の唇が僕の唇に触れた。


「奪っちゃったー」
ふだんはにかんだ表情をしてるヤツだっていうのに、どうしてこんなに大胆なことを!?
僕の方が照れる。
当の栞だって、頬は桜を通り越して桃色になっている。
そんなに恥ずかしいならするんじゃねぇ!


「ったく・・・そのセリフはCMのパクリだぞ?」
僕は照れ隠しに言い放った。
「あはははは!!」
栞は屈託なく笑う。


風に、シフォンのようにやわらかな栞のスカートが揺れていた。


「ゴミは取れたのか?」
「・・・笑ったら取れたみたい」
「そう・・・」
「うん・・・・・」


もう一度僕らは顔を見合わせて・・・静かに唇を重ねた。



こよひ、花酔ひ。


そんな言葉がふと頭に浮かんだ。またなんだか新しい話が書けそうだ。


こよひ、花に、君に、酔ふ。