「ぬくもり」


                  それはただ一度だけだった。
                  けれど確かに、僕はその時・・・。


                 「あぁ、もう終わっちゃったんですか?」
                 背後で女の人の声が聞こえた。
                 「申し訳ありません、すべて終了いたしました」
                 店員さんが対応している。

                 今日は、僕が初めて出したエッセーの発売記念握手会だった。
                 「あ、あの・・・」
                 奥に引っ込んだばかりの僕は思わず、出版社の人に話しかけた。
                 「一冊、あちらから持ってきていただけませんか?すぐサインしますので」
                 「いえいえ、先生にそんなお手数おかけするわけには・・・
                 ひとりだけ特別扱いはできませんし、とにかく予定販売部数は
                 終了いたしましたので。それより先生、この後・・・」

                 僕だって昔、会社で働いてたんだから、組織のことくらいわかってる。
                 けれど、どうしてこう頭カタいんだろう?ああ、だから僕は会社勤め向いてなかったのか。

                 振り返ると、その華奢な肩をがっくりと落として帰ろうとする彼女の姿が見えた。


                 「先生、本日はどうもありがとうございました」
                 「いえ、こちらこそ・・・」
                 「ささやかですが宴席をご用意しておりますので、これからそちらへ」
                 「あ、ちょっとその前に・・・いいですか?」
                 「は?」
                 「すみません、少し待っていただけます?すぐ戻ります!」
                 「せ、先生?!」

                 僕はあわてて後を追った。さっきの彼女の後を。
                 もう駅まで歩いて行ってしまっただろうか?
                 うろ覚えのその後ろ姿を、人ごみの中から探して歩いた。

                 けど、やっぱりムリだったのかな。見つけることができなかった・・・。

                 僕は彼女と同じように、がっくりと肩を落として帰ってきた。
                 店の事務室に戻る前に、ふと店の中に目をやると・・・彼女がいた!
                 僕のエッセーの前に・・・。そして一冊手に取るとレジに行った。

                 彼女が店から出て行ってしまう!

                 「あの!」
                 店の横で、僕は声をかけた。
                 「はい?」
                 振り返った彼女は、驚いた顔で僕を見た。
                 「あ・・・!!」
                 「先ほどは失礼しました。出版社の都合があって・・・」
                 「い、いえ・・あの・・・」
                 「それ、いいですか?」
                 僕は彼女の手から本を取ると、中にサインをした。
                 そして・・・そっと右手を出す。

                 「どうもありがとうございます」
                 「いえ、こちらこそありがとうございました!」
                 握手を交わした彼女は、本当にうれしそうに笑った。
                 「あの小説、連載中からずっと読んでました。このエッセーもすごく楽しみで・・・
                  ・・・これからも応援してます!!」
                 ぺこりと頭を下げた彼女は、立ち去ろうとした。

                 「どこが?」
                 僕は彼女の横顔にたずねた。
                 「え?」
                 「あの小説のどこが好きですか?」

                 ちょっとはにかんだ後、彼女はこう言った。
                 「ぬくもりが好きなんです・・・。哀しいことがあっても、どこかで必ず救われるというか・・・
                  あったかいんですよね」

                 ぬくもり・・・か。僕が大好きな作家に出逢った時もそうだった。
                 こんなふうに誰かの心をあたためられたら・・・って。
                 僕の作品を必要としてくれる人がいる。
                 それだけで僕は書いてゆける、そう思った。
                 「どうもありがとうございます!」
                 自然に感謝の言葉が出た。

                 「作品と同じであたたかい方なんですね。とてもうれしかったです。
                  ありがとうございました!!」
                 さよなら、と言う彼女の笑顔が、傾きはじめた陽ざしの中で光って見えた。

                 「先生!!」
                 後ろから呼び止められた。
                 「先生、どちらにいらしてたんですか?!」
                 「あ・・・すみません。お待たせしてしまって」

                 立ち去ってゆく彼女の後ろ姿は、幸せそうだった。
                 ただ一度だけ振り返って、ほんのりと笑っていた・・・。


                  それはただ一度だけだった。
                  けれど確かに、僕はその時・・・彼女に恋をした。