「オアシス」 〜アドニスカクテル〜


あの人の部屋をたずねたら、女の名前が連名で書いてあった。
どういうこと?!どうしてそんなことできちゃうの?!
別に私は、あの人の女でもなんでもない。だけどずっとずっと、
あの人を想って生きてきた。
あの人も私のそんな気持ち、知らずにいたわけではないのに・・・?
私は選ばれなかったんだ・・・。涙すら出てこなかった。
チャイムを押して、あの人に事実を確認できるほどの勇気はない。
ましてや、女にはちあわせするほどの覚悟もない。
私はあの人の部屋の前から、足早に逃げた。

気がついたら、街をふらついていた。
どこをどう歩いたのかよく覚えていないけど、とあるバーに辿り着いていた。
ほどよく照明を落とした、オトナの雰囲気のバー。
私はお酒は強い方ではないけれど、今夜は飲みたかった。

初めてバーカウンターに座ってみる。
こんな日くらい、オトナの女きどってみてもいいでしょ?
「いらっしゃいませ・・・」バーテンダーが静かに言葉をかける。
「あ・・・私、初めてで・・・なにがいいのかよくわからなくて・・・」
「お酒はお強い方ですか?」
「いいえ・・・。でも今日はなんとなく飲んでみたいんです・・・」

「それでは・・・これを・・・」
そう言って彼がすすめてくれた、カルーア・ミルク。
コーヒー・リキュールのこれは、この私でも飲んだことがある。
この甘さ、今の私には必要だったかもしれない。
でもどことなく苦っぽろいのは、私の心が痛いからだろうか?
ふっと目が熱くなった・・・。なんで今ごろ涙が出てくるのよ?!

こんなバーカウンターで、ひとりでカクテルを飲んでる女だったら、
たいてい理由アリだよね。
しかもこんな泣きそうな顔で・・・。

少し離れた所に、ひとりの男が座った。
「トキオを・・・」
「はい、かしこまりました」

トキオ?そんな名前のカクテルがあるの?

「なんともいえないいい色だよね?」
男がバーテンダーに話しかける。
「これ、1983年のカクテルコンペティションで準優勝した、カクテルアーティスト
 オリジナルのカクテルなんです。ロゼベルモットで、朝日に染まる、都会の静かな
 情景を表現しているんですよ。レッドチェリーはその昇る朝日を表しています」

シェイカーからカクテルグラスに注がれたそのカクテルは、ほんのりとした朝焼け色・・・。
グラスの底のレッドチェリーが、本当に朝日みたい・・・。
昔、あの人を想って眠れずに迎えた、朝の窓から見た景色に似ているような
気がした。
ダメだよ、泣いちゃ・・・。思えば思うほど、涙があふれそう・・・。

「泣きたい時は泣いたらいいんじゃない?」
離れた所にいる男が、こちらを見ながら口を開いた。
私はフッとその男に目をやる。
男は、ほんの少しだけ微笑んだ。この人もどことなく淋しい目をしている。

「バーには物語があるからね」
そんなキザなセリフ、どこから出てくるのか?!
いつもなら笑うところだけれど、今の私には笑う余裕すらなかった。

「いつも一人で飲んでるんですか・・・?」
私は男に聞いてみた。
「うん・・・。人から離れた所で、人間観察をしながら一人で飲むのが合ってる
 らしいんだ、僕には」
「・・・私もけっこう一人が好きかな・・・」
「でも、今夜は一人じゃない方がいいんじゃないの?」
「それって・・・口説いてるんですか・・・?」
「え?そう聞こえる?」
フフッと微妙な顔で笑う男。

「いろいろあるよね、恋愛も・・・。どんなことがあったか知らないけどさ、
 飲みたいんだったら、ここで朝まで付き合うよ?」
「え・・・?」
これがこの男の落とし方なのだろうか?
カウンターのワケアリ女を、毎回こうやって落としてゆくの?
でもなんだろう・・・この人の頼りなさそうな笑顔、憎めない。

私は席を動いた。男の隣りへ・・・。
自分でもどうしてそんなことできたのか、よくわからないけど。
やっぱり一人でいたくなかったからかもしれない。
あの人へのあてつけの気持ち、それだけだったかもしれない。

「次は何にする?」
男が聞いてくる。
「私そんなに強くない・・・」
「大丈夫、朝までにはちゃんと抜けるから」
そう言って、アドニスをオーダーする。私の分と自分の分の二つ。

「アドニスって、ギリシャ神話に出てくる、愛と美の女神アフロディーテに
 愛された美少年の名前なんだって」
「美少年の名前?」
「そう、きみに魅入られた僕、みたいでしょ?」
「はぁっ?!」

なにをオバカなことを言い出すんだか、この男!?
自信に満ち溢れてるというより、すっとぼけてる。ボケをかますので、
思わずツッコミを入れたくなる。
「あなたが美少年、ってこと?」
「え?違うの?」
ヒャッヒャッヒャッと不思議な笑い方をする。その笑顔がなんとも無邪気で、
一瞬私は、ドキッとする。

「今のきみの顔、素敵だよ・・・」
なんでもないような顔をして、そういうセリフ言うんだね。
「きみなら、いい恋ができるって」
「なんにも知らないクセして、どうしてそういうこと言えるの?」
すると男は、じっと私を見つめながら
「僕もいい恋ができそうだから・・・」とだけ言った。

アドニスに使う、シェリーとスィートベルモットってアペリティフ(食前酒)
なんですって。
バーテンダーが教えてくれた。
ディナーの前のお酒・・・。
琥珀のような深みのある色。でもこんな強そうなカクテル、私大丈夫かしら?
私の不安そうな顔を見てとったらしい。男が言う。
「大丈夫、一口飲んでごらんよ。酔ったら、冷めるまでここにいればいいから・・・」
アドニスのグラスを二人で合わせる。オレンジの香り。恋の予感・・・?

いつしか男の手が私の腰に回ってる。もしかして今日のディナーって・・・?
私もなんだか嫌じゃない・・・。

動悸が激しくなる。アルコールがまわったせいもあるけど。
この男に酔ってしまったのかもしれない。
男の手が、よりいっそう私の腰にからみつく・・・・・。
男は、いいじゃないか、と言わんばかりの顔をしてる。

カウンターの向こうで繰り広げられるこの光景を、バーテンダーは
気づいているのだろうか?

もうダメ・・・ここでこれ以上はもう・・・。
私は我慢できなくなって、こう言った。
「朝まで付き合うのは、ここでなくてもいいでしょ?」
男はきっと、待ってましたと、心で手を叩いたに違いない。

店を出る。
男と女の物語を作り上げるバー「オアシス」を。
この次はどんな物語になってるだろう?
この男と私の物語は。
男は私の肩を抱き寄せた。私は男にもたれながら、店を後にした。

外は・・・薄明るくなりかけている。
ほんのりとしたその朝焼け色、カクテルのトキオを、この男と迎えるために、
タクシー乗り場まで歩いてゆく。
拾えなくても、どこまでも歩いてゆきたい。
新しい物語の始まりに、乾杯。






参考文献: 稲 保幸 著 「カクテル」(新星出版社)
       上田 和男 著・川部紘太郎 写真 「カクテル」(西東社)