「オアシス」 〜アドニスカクテル・微熱〜 私の足は自然とあの店に向かっていた。 あの男と出逢った、バー「オアシス」に。 男の名は譲。 ただ一度朝を共にし、互いに電話番号すら聞かず別れた。 またあの店で会おう、と。 会えたら、もしかして運命の糸で結ばれてるのかもね?と 笑って答えた私。 オトナの女を気取って呟いたただの強がり。 あれからずっと微熱が続いている。 バーテンダーにたずねる。 「あの・・・譲さん、時々来てます?」 「え?ああ・・・昨夜見えましたね」 「そうですか・・・」 「例のごとく、おひとりで」 私の顔に安堵の色が浮かんでいたに違いない。 「アドニスを・・・」 私は迷わずオーダーする。 「そういえば、譲さんも飲み始めはこのところ、いつもアドニスですねぇ」 バーテンダーの言葉に記憶が蘇る。 『女神アフロディーテに愛された美少年アドニス。 きみに魅入られた僕みたいでしょ?』 彼は頼りなさそうに笑っていた。 アドニスをオーダーしながら、彼はいったい何を、誰を、想っているのだろうか? 私の心を苦しめるような、得体の知れないわけのわからない人。 やさしいのか、屈折してるから自分の本質見せたがらないのか、謎だらけ。 なのにどうしてこんなに想ってしまうのだろう? どうして彼なんだろう? 小さく呟いたつもりだったけれど、それに答えるように、バーテンダーは静かに言った。 「それが恋というものではないですか?」 そうね、それが恋。 もはや微熱の時は過ぎ去り、さらなる体温の上昇を感じている。 彼と出会って日もまだ浅いというのに、自分の想いの深みにはまって 身動きできずにいる。 そうね、きっとそれが恋。 あんなに好きだった、心がちぎれそうなほど愛したあの人から、 自分の本心をねじ曲げて逃げてしまった。 私が求めていたのはあの人だけだったのに・・・。 何も感じられないくらいの打撃を受け、 心まで不感症になってしまった私に、ひとカケラの冷たい氷を口に含ませてくれた男、 それが彼だった。 理性で押さえることができないくらい、どうしようもなく彼を愛してしまってる。 多くを語らないのが大人なんだろうか? でも時には見せてほしい、心の奥底。 本当の彼を知りたい。 もっと心がおだやかに落ち着いたら会おうって? おだやかになんて愛せない・・・ 落ち着くとしたらそれは、彼の胸に抱かれて愛される時。 淋しい・・・会いたい、会いたい、会いたい! 私はアドニスのグラスを傾けながら、涙が湧き上がってくるのを必死で堪えていた。 「泣きたい時は泣いたらいいんじゃない?」 確かに聞き覚えのある声が、私の背中をぞくっと震わせる。 振り向くのが怖い。その目を見てしまうのが怖い。 「真雪さん、お久しぶりですね」 ちょっと他人行儀な言葉遣いをして、私の隣に座る彼。 思わず、堪えていた涙がこぼれ落ちた。 私の顔を覗き込みながら、半分笑って言う。 「マスカラはこの時期、ウォータープルーフに限るよね?」 え?マスカラやっぱり落ちてる?! そんなー・・・恥ずかしい! パウダールームに駆け込もうとする私を、彼は手で遮る。 「大丈夫だって!そんな心配するほどじゃないよ。僕が拭き取ってあげるから・・・ 心おきなく泣いていいよ?」 そう言って私の肩をそっと抱く。 「また来ます・・・」 彼がバーテンダーに笑顔を向けると、 言葉は返さず、暗黙の了解のような笑みを見せるバーテンダー。 ったく誰のおかげで泣いてると思ってるの?! だけど私は本心に抗うことができず、こんな目のまま店を出て、 彼の肩にもたれて歩いていた。 次から次へと涙が溢れて止まらなかった。 もう待てない!そう思ったのは私だけじゃなかった。 人通りが途切れたところで、彼は立ち止まり、私をきつく抱きしめる。 「真雪、会いたかったよ!」 「・・・私も・・・ずっとずっとあなたに会いたかった!」 ほの暗い月明かりの中で、お互いの唇を重ねる。 息苦しいのはキスのせい?それとも・・・ 彼を想う心が痛いから? 「カッコつけて電話番号も聞かないで、バカだよな?オレ」 初めて彼が心の内を見せた気がする。 得体の知れないわけのわからない人の、心の片隅が少し見えてきた。 淋しい目をする彼の、過去にどんなことがあったのか、私は知らない。 だけど、お互い分かち合える気がしてる。 バカな男に翻弄されるオロカな女 オロカな女に惹かれるバカな男 神様はとんでもない生き物を創ったものだ。 でも、彼に逢わせてくれたこと、私に光を与えてくれたこと、 今は心から感謝している。 タクシー乗り場までの道を、ふたりでゆっくりと歩いた。 微熱から始まった恋。 この道はふたりの人生に続いているのかもしれない・・・。 参考文献: 稲 保幸 著 「カクテル」(新星出版社) 上田 和男 著・川部紘太郎 写真 「カクテル」(西東社) |