「オアシス」 〜あの日のボサノヴァを聴かせて〜


「ごめん、遅くなって」

あなたがカウンター席にすわった。

「私も今さっき来たとこだから」

ドラマでもよくあるセリフ。

ふわりと漂う香りに、私の知らない女(ひと)を感じる。
でも・・・「誰といたの?」のひとことが訊けない。


「仕事、相変わらず忙しいのね」
「打ち合わせ長引いちゃって・・・ごめんな」
「ううん、いつものことでしょ?」


私はスクリュードライヴァーのグラスを空けた。

「スクリュードライヴァーか・・・」
「そう、初めてあなたと飲んだ時、私が何を頼んだらいいのかわからなくて、
 じゃ、これにしたら?ってあなたが言ったの」
「そうだったね」
「レディキラーのカクテルだとは思わなかったわ」
「別に深い意味はなかったつもりなんだけど」

あなたは苦笑いした。


「すみません、ブザム・カレッサー・カクテルを・・・」
「じゃ、僕はナイト・キャップを」

「かしこまりました」

長身のバーテンダーが、軽く頭を下げた。


「いつの間に、そんな強いの飲めるようになったんだ?」
「さぁ?誰かさんのせいかも」

私は笑った。
そうよ、ブザム・カレッサー。私だけの抱擁って意味だもの。

「あなたは、来た早々にもうナイト・キャップなのね?」
「時間も遅いしさ・・・」
「じゃ、今夜は聴かせてくれない?あの日のボサノヴァ。あなたの部屋に
 初めて行った時、聴かせてくれたあの曲」
「いいけど・・・」
「なんか気乗りしない言い方じゃない?」
「そんなわけないだろ?」


「おまたせいたしました・・・」

目の前に差し出される2つのグラス。どちらも寝る前に飲む
ナイト・キャップ・カクテル。


「初めてキスした時・・・」
「うん」
「私、ドキドキして舞い上がっちゃったことだけ、ものすごく覚えてる」
「もしかして、今はドキドキしない、って意味?」
「あなたはどうなの?」

私はあなたの顔をのぞき込んだ。

「僕は変わらないよ」

あなたは私を見つめ返した。

「私が、あなたの腕の中にいることに、慣れすぎちゃっただけなのかも
 しれない」

幸せの中にいる時、人はなかなかその幸せに気づかないものね。

「だから聴かせて?あの日の曲」
「うん、そうだな。久しぶりに聴こうか」


あの日に戻るためのナイト・キャップ・カクテルを、二人で一緒に空けた。







参考文献: 稲 保幸 著 「カクテル」(新星出版社)
       上田 和男 著・川部紘太郎 写真 「カクテル」(西東社)



BGM : 彩音の頭の中にだけ巡る、若かりし頃に作った曲(^_^;)(^_^;)(^_^;)