「オアシス」 〜 粋 〜


金木犀の香りがこの辺りにも漂い始めた。
すりガラスの窓を開けると、ふわりと俺の部屋にも入り込んでくる。

俺の住んでるこの部屋は、もともと一軒家だった昭和初期の家を、
改装してアパートにしたもの。
1階と2階、それぞれ1軒ずつ住めるようになっている。
不動産屋から見せてもらった時、なんだか妙に気に入っちまったんだ。
またこの不動産屋が、人がいいんだ。
頼りない関西弁で、どこか哀愁のある背中がさー。

玄関は2つ。まるで2世帯住宅みたいだよな。
って、2世帯住宅でいいんだった。
狭い玄関を入ると階段があって、そのまま2階の部屋へ上がれるという、昔懐かしい造り。
改装してあるとはいえ、木造だから音も振動も階下へ伝わりやすい。
下に住む桧原(ひのはら)とはダチで、行ったり来たり仲良くさせて
もらってるから、トラブルなんてのはほとんど起きないんだけど。
からんという下駄の音を響かせて、眼下を豆千代さんが行く。

「あら、紫狼さん、こんにちは」
俺の視線に気づいた豆千代さんは、いつものようにのんびりと言葉をかけてきた。
「これからお稽古?」
「ええ・・でも今日はお稽古どころではないかもしれないわ」
「そうだねぇ、町中祭り一色だからね」
「紫狼さんも出るの?」
「今年はちょっとかつがせてもらうつもりなんだけど」
「じゃ、楽しみに見に行くわね」
「おぉ、楽しみにしといてくれよ?」
ほがらかな笑顔を残して、豆千代さんは通り過ぎて行った。
俺の住むこの町には、粋が溢れてる。

石畳の小道。ちょっと裏へ行けば、チャリも通り抜けるのがたいへんな階段の道もある。
小料理屋。芸者さん。昔ながらの風情が残る大人の町。
俺はこんな下町の香りが好きなんだ。


さて、神輿の時間までの腹ごしらえに、オヤジの寿司屋にでも行ってくるとするか。
ここの寿司屋には、家族みたいに顔を出してる。
ふだんバーテンダーなんて仕事をしているもんだから、俺の生活はやたら「和」を求めるらしい。
メニューにはないんだけど、ここのお茶漬けが絶品でさー。
寿司屋へ行くと、俺が来るのがさもわかっていたかのように、オヤジが出てきた。
「よぉ、紫狼、早く食っちまってくれよ」
見ればオヤジは、はっぴに肩袖を通し、祭りへの意気込み十分といったところ。
「うちのバカ息子なんざ、朝っぱらから出かけちまってるぞぉ?じゃ、あと、よろしくな!」
「ちょっとおい、オヤジー?」
「片付けとけよー!」
オヤジはさっさと行っちまった。

かって知ったる寿司屋の台所にて、冷蔵庫を開けようとすると、扉にメモ。
「今日のまかない・づけ丼」
冷蔵庫の中に・・・あったあった、タッパーの中にマグロさんがいい色になって。
寿司飯の上にマグロさんをのっけて、きざみ海苔と・・・ごまを少々、大葉も忘れずにね。

ただいま食しております。しばらくお待ちください。

はい、ごちそうさまでした。合掌。
さて、いよいよ俺も、イナセな若い衆の仲間入りと行くか。
さほど広くない集会所には、祭り好きを自称する老若男女でひしめき合っていた。
その中に、あれ?女神輿のところにいるのは・・・
「豆千代さん?」
「あ、紫狼さん。私もかつがせてもらうことにしちゃった。これ、前から一度やってみたかったの。じゃね」
彼女はうれしそうに、他の女神輿仲間の中に入っていった。
やけにうれしそうなのは彼女よりも、その彼女の神輿姿に期待をかける男連中なのかも
しれないな・・・と辺りを見回しながら思わず苦笑した。

寿司屋の息子の銀ちゃんが俺の肩を叩いた。
用意してくれていたはっぴを羽織って、銀ちゃんと共に俺も行く。

駄菓子屋のおばちゃんが、「頑張って!」と笑いながら手を振っていた。

俺の住むこの町には、粋が溢れてる。
バー・オアシスが人の心の”癒し”のオアシスならば、この町は俺の”安らぎ”のオアシスかな。