「オアシス」
夜もこんな時間になると、さまざまな事情を抱えた人たちがこの店に集ってくる。
ここはそのへんによく転がってそうなバー・オアシス。俺は一介のバーテンダー・紫狼(しろう)。
ほら、カウンター席では男がひとり、酔いつぶれてる。
それにもかかわらず、男はまだオーダーしようとしている様子だ。
「んー・・・ギブソンをくれ!」
「お客さん、大丈夫ですか?もうやめておいた方が・・・」
俺は多少心配になって言ってみた。
「ええねん、ええねん、まだまだ行けるんやぁ〜!明日は仕事休みやしぃ・・・」
ふにゃふにゃな言葉づかいで男は言う。
「人の人生乗せて車で走っとるとなぁ、時々、自分の人生を背負うてくれる場所が
欲しくなるんよ〜。ふふ」
背中に影をしょってしまってるような淋しい笑いだ。
どうやら男の仕事は・・・タクシードライバーらしい。
この店がそんな心のオアシスになってくれているとしたら、雇われの身でありながらも、
バーテンダー冥利に尽きるってもんだ。
俺がカクテルを勉強し始めたばかりの頃、ギブソンという名前は、ギターから取ったものとばかり
勝手に思っていた。
実は、カクテル好きだった19世紀ニューヨークのイラストレーター、チャールズ・D・ギブソンが
その名の由来らしい。
辛口でアルコール度数もかなり高め、オリーブを入れるマティーニと同じ材料だが、
パールオニオンを入れることによってマティーニよりも辛口になる。
ステアよりもシェイクした方が柔らかい味になるから、今夜のこの客にはシェイクをすすめよう。
ドライ・ジン、ドライ・ベルモットをシェーカーに入れ、シェイク。
カクテルグラスに注いで、最後にパールオニオンを沈める。
「どうぞ・・・」
「どうしてあの時、手離してしもたんやろ・・・・・」
泣き言が入ってきた。
「どうして・・・・・灯(あかり)ーーーーーーーーーーーッ!!」
「まぁまぁ、お客さん・・・」
カウンターにつっぷした男を、俺はなだめるしかない。
「あかりさんなら、この店にもおりますが・・・」
「へっ?」
男は一瞬顔を上げる。
「あそこでピアノを弾いてるのがあかりさんですよ」
俺の言葉に、彼女に目をやった男は懐かしそうな顔をした。
「なんでも昔、好きだった人の音楽やってる姿がすごく好きだったそうで・・・
別れた後、自分でも小さい頃やってたピアノを始めたそうなんです」
男は目を細めて、あかりさんを見ていた。
何か歌を・・・と、俺はあかりさんにそっと目配せした。
彼女はひとつうなずいて、弾き語りを始める。
♪私は心まで砂嵐
あなたにうるおしてもらわなきゃ 息もできない
カンタンなこと
強く抱きしめるだけでいいのよ
あたり一面 オアシスに変わって
心の泉も とめどなくあふれ出すから♪
この曲を初めて弾き語ってくれた時、彼女がそっと話してくれた話を、俺は思い出していた。
彼女の好きだった人は、本格的に音楽をやろうとしていた人だったらしい。
プロとしての道も決まりかけていた彼に、うれしいのと同時に湧き上がった独占欲が、
自分を蝕み始めたのだと言う。
うれしそうに笑う彼に、「いつかどこかに行ってしまう・・・そして二度と帰って
来なくなるんだ、きっと」と不安に苛まれた彼女は、自分から別れを告げていたのだそうだ。
「だけどね、失って初めてわかるのよ、失ったものの大きさを・・・」
「じゃ、まだその人のことを想っているんですか?」
「たぶんね・・・。そんな想いが残ってるから、こんな曲ができたのかもしれない」
そう、この曲は彼女のオリジナル。
この曲を作る前に、ある曲を聴き、初めて泣いたのだそうだ。
「彼は今、何をして生きてるんだろう?すさんだ生活をしていないかな・・・。
もしかして彼の心にも私と同じ風が吹いているのかな?だったら・・・それだけでいい、
なんてね・・・。」
遠くを見つめたまま。
俺はヘタな慰めの言葉は言いたくないんだけれど、ふと口にした。
「また恋すればいいじゃないですか?」
「そうね・・・でも、今まで何もかも許したのは彼だけだから・・・」
俺よりはるかに年上で、さまざまなことを味わって生きてきたんだろう彼女の、重みのある言葉。
「だからね、この曲を彼に贈るの。心の中だけでそっと・・・。
私は、このピアノと歌でみんなを元気づけられたらそれで幸せなのよ」
と言いながら、どことなく淋しそうに笑っていたのを覚えている。
♪傷ついた羽を休めて
世の中の汚い垢を 洗い流しましょう
からみ合った愛の糸をほどいて
何もかも忘れて眠るのよ♪
彼女がピアノをポロンと弾き終わった時、店の中に拍手が響き渡った。
男も拍手を送っていたが、突然立ち上がった。足元がちょっとふらつく。
「大丈夫ですか?」
俺は支えようかと手を差し出すと、男はその手をそっと押しやりつぶやいた。
「あの彼女によろしく・・・」
さっきまでの酔いつぶれた状態は、彼女の曲の演奏のうちに少し冷めていたらしく、
しっかりとした言葉だった。
そしてどことなく瞳を潤ませたまま、男は静かに立ち去った。
あの目・・・懐かしさと淋しさが入り混じったような目・・・。
もしかして?!
俺は彼女に駆け寄って、耳打ちすると、
「ありがとう!」
一言だけ言って、彼女はあわてて店の外に出て行った。
そりゃ、俺は彼女の好きだった人の顔は知っちゃいないし、もしかしたらまったくの
別人かもしれない。
ただ、せっかく降りかかってきたかもしれないめぐり合わせを、無駄にしたくないだけさ。
なんてカッコつけながら、俺は今日もカウンターに立つ。
「ブルー・ムーン、おまたせいたしました」
薄紫色の宝石のような神秘が、カクテルグラスに漂っていた。
参考文献: 稲 保幸 著 「カクテル」(新星出版社)
上田 和男 著・川部紘太郎 写真 「カクテル」(西東社)