Consideration

Vol.1  テレツ理論とスミス理論についての考察



はじめに
 
トム・テレツ氏とジョン・スミス氏、それぞれ、カール・ルイスとモーリス・グリーンを100mの世界記録保持者に育て上げた名伯楽です。その理論は世界のスプリント界に大きな影響を与えてきましたが、この2つの理論を対比させて、私(天野)なりの考察をしてみたいと思います。
 
 
1.スタートにおけるブロック・クリアランスの角度
 
クリアランス角度については、テレツ氏は45°・スミス氏は35°での蹴り出しを推奨しています。シドニーオリンピック直前にNHKで放映されていたように、力学的に見ても同じ力でスターティングブロックを蹴りだしたとしたら、35°の蹴り出しのほうが進行方向(水平方向)へのベクトルは大きくなります。ジョン・スミス氏はスピードスケートのスタートダッシュの前傾姿勢の低さをヒントにしてこの理論を導いていますが、私たちが実際に低い姿勢でのスタートに取り組もうとするときには大きな落とし穴があります。それは、スケーティングとランニングでは、接地をしている間の重心移動時の股関節の運動方法が異なるからです。スケーティングでは後脚で氷を押して重心の前方移動とともに股関節の前方屈曲(脚を前方に出していく)すれば、慣性の働きで氷の上を滑っていくので、いくらでも低い姿勢をとることが可能で、水平ベクトルの増大や空気抵抗の減少から、むしろ低く出るほうがよいわけです。一方、ランニングにおいては、体が地面から離れる瞬間から位置エネルギーが生じ、これを次の接地でうけとめなくてはなりません。そして、接地時の重心移動をするときには、常に股関節が後方伸展(脚が体幹通過後は後方屈曲になる)をしないと重心は接地点上を通過していかないのです。ですから、スタート時も、一旦股関節を前方屈曲させて(膝を前に出して)から脚を引き戻しながらの接地が必要なのです。ブロッククリアランスの角度が小さくなる(低く出る)ほど時間的な余裕はなくなり、倒れこんでいく体を支えることで精一杯で、肝心の股関節の動きはロックされて重心移動の妨げになります。モーリス・グリーン選手のように、この一連の動作を短時間で行うには、相当の筋力が必要とされます。極端な例で例えると、低い蹴り出しで 「水平方向の跳ねないバウンディング」 をするようなものなのです。残念ながら日本人選手は、この理論を実践できるだけのパフォーマンスを備えた選手はいません。倒れこみによるスタートは落ちていく重心を支えることにエネルギーを使うので、早い段階で筋疲労を生じてしまい、後半の失速の原因となります。また、この倒れこみスタートをするときに見られる現象として、ラダートレーニングを行ったときのようなバタバタとした動きになるので、努力の割には運動効率が悪くなります。特に筋力の少ないジュニア選手が取り組むのは回避すべきで、テレツ氏の言う 「45°での蹴り出し」 を行ったほうが賢明です。
 
スケーティングとランニングの動作のちがい
 
スケーティング 重心が接地点上に乗った後の後脚の蹴りによって推進力を得る(前脚は股関節の前方屈曲)
ランニング 接地までの股関節の後方伸展(前脚の振り下ろし)によって推進力を得る
 
 
2.ブロック・クリアランス時の下肢3関節の動き
 
テレツ氏・スミス氏、ともに水平方向への重心移動をスムーズにすることを述べていますから、これを実践するには、股関節・膝関節・足関節を同時に伸展させることになります。モーリス・グリーン選手は45°よりも低い角度で蹴り出しますので、脚の膝関節は90°よりもやや広めにセットしています。
 
 
3.加速区間からフィニシュまで
 
疾走する区間によって働かせる筋を使い分けるというスミス氏の理論は科学的で理にかなったものです。これは料理に例えると、無駄のない、使えるところは何でも使う「中華料理」といったところでしょうか。テレツ氏の理論の対比でポイントになるところは、スタート後のどの地点で最高速度に到達するかという点です。スミス理論では、スタートから20mまでを低い前傾姿勢を保ち、大腿前面の筋群(大腿四頭筋)を使って爆発的な加速力を発揮し、次の20mのなかで使用する筋を大腿前面から後面の筋群(ハムストリング)へと移行させ、40m地点で最高速度に達し以後の区間を大腿後面の筋群によってスピードを維持していきます。実際に100mレースのスピード曲線を見ても、ほとんどの選手が40m地点で最高速度に達しています。しかし、スピードの立ち上がりの早い分、残りの60mを最高速度を保って走らなくてはなりません。ほとんどの選手が失速していくなかで、HSIでは腸腰筋などの深層筋を鍛えることで後半の失速を防ぐことを説いています。この点についてカール・ルイスのコーチであるトム・テレツ氏は、最高速度の維持可能な距離は30m程度と考えているので、スピードの立ち上がりをなるべく抑えて最高速度に到達する地点を後半にもってくるように指導しています。カール・ルイスが世界記録(9"86)で走ったときのスピード曲線を見ると、一旦最高速度に達してからさらに後半にスピードが上がっています。これは、実際にカール・ルイスがスピードを上げようとしているのではなく、レースの後半に余力を残している結果としてスピードが上がったものと考えられます。
いずれにせよ、後半の失速を防ぐには、リラックスして慣性を利用して走る技術が求められます。
 
 
4.まとめ
 
スミス氏の理論は理にかなったものですが、その運用については極めて特殊性があります。指導の場であるHSIでも、この理論を実践できる身体的な制約(身長175cm前後の選手)を設けています。ジュニアの競技者は、技術的にも体力的(特に筋力)にもこの理論を実践する位置にはありません。体が受ける負担を少なくし、効率よく重心を移動させるための技術の習得を優先させてトレーニングを行ったほうがよいと思います。その意味では、テレツ氏の理論は、導入部分として適しているといえます。