携帯 電話

 その昔、誰もが携帯を持っていなかった頃、俺は不動産屋に勤める若造と言い合いの喧嘩をした。 男は10円玉をジャラジャラ鳴らしながらカウンターの隅にあるピンクの公衆電話の前に座った。

 始まりは仕事の話だったから少しの長電話は許容した。 男の話がはずんでいる。 酒の酔いも手伝って、川崎の堀の内で女と戯れてきた話、来週の有馬記念で穴を狙う話、すでに10円玉は10枚も落ちている。 赤坂のディスコのお立ち台の女のバカ話になった時、俺は切れた。
 「長電話は控えて下さい。」
 「俺の金で電話して、なにが悪い。 これは公衆電話だろ。」
 「公衆電話だから、独り占めしないで下さい。」
 「次に使う奴がいるのか。 誰もいねぇじゃねぇか。」
 「外からかかってくるんです。」
 「そんな、人気のある店か。」

 この若造、的を射たことを言いやがると内心、合点した。 俺も若かった。 後に引けないから。
 「そんなに長話したけりゃ、飲み屋じゃなくて電話ボックスにでも行け!」

 それから数年して携帯を持つ客が、ちらほら来るようになった。
 時はバブル最盛期、日商岩井でトレーダーをしている若者だった。 片時も仕事から解放されないで、グローバルな経済社会を生きているエリートの象徴でもあるかのようだった。 携帯は高価で一般的にはなかった。

 だから、店に来ていたヤーさんはすでに手中にして、遊び道具、金銀光り輝く装飾品と同じように身につけていた。 労働をしていない手にゴッツイ黄金の指輪、そして携帯で何やらヒソヒソと語る。 なぜか、その頃は随分とヤーさんが目立ち、頻繁に店に来ていた。 俺は自分のどこに、その筋の方々から気に入られるのか心得ないが、しばしば遊びにも誘われた。 もちろん御一緒したことはないが、そこに俺の携帯があったとしたら、取り込まれ、包囲され、深夜に闇の友情をはぐくんでいたかも知れぬ。 そしてその方々、ヒソヒソと携帯で何を語っていたか。 全くヤバイ話ではなかった。 ただ、そんな方々でさえ、携帯で話される時、声をおさえる礼儀をわきまえていたのである。

 女の長話とはよく言われるところだが、男の携帯の長話は醜悪である。
 人前で話すべきではない。 人の耳を煩わしてはならぬ。 話してる姿、話してる声、話してる事柄諸々、秘するべきなのに、見たくもないストリップを見ろと強要されているみたいで嫌だ。
 俺は思う。 携帯の向こうに居る人が、すぐれて優しく、美しく、気高く、静かに微笑み、その声を受け入れて耳かたむける者なら、携帯の声など無用だと返すだろう。

 けたたましく喋るな。 速やかに話を打ち切り、携帯を懐におさめる。
 これは酒場における男のたしなみと心得よ。


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