山口先生

 25年前に視野狭窄という病魔におそわれ、やがて完全に視力を失った山口先生は都立高校の教師だ。 失明した後も教壇に立ち、職責を果たした。 己が身の不自由に屈することなく、教師という仕事に立ち向かっている姿を俺は25年間見続けてきた。 時々の来店だが、山口先生は座頭の市さんのように仕込み杖をたよりに店のドアを開ける。 そして、矢鱈と明るい声で「こんばんわ、いつもの席でいいですか。」と俺が答える間もなく、定席に座る。

 勝手知ったる婆娑羅だから、「いつものでお願いします」の一声で事足りる。 でも、時々は、いつものではない品を出して悪戯をする。
 「アレ! 今日の肉は違いますねぇ」
 「わかってるねぇ。 それは裏の空地で捕まえた野良猫の肉。 うまいだろ」
 「野良猫にしては、ずいぶん上品な味ですね。」と、きっぱり切り返してくれる。 まこと、上等な先生である。

 10月の土曜日、NHKのテレビドラマは盲目の中学校教師が主人公の「チャレンジド」と言うドラマだった。 佐々木蔵之介という役者が演じていた主人公はまさに山口先生そのものであった。 御覧になった人も多いと思いますが、その真面目さ、愚直、熱血、人の心の中にわけいる姿、テレビドラマ故の誇張は否めないけれど、なかなかリアルに山口先生を描いていました。


 別の土曜日の黄昏時、そこにはいつもの山口先生が、ひとりおとなしく盃をかたむけていました。 と、そこに、ひとりの妙齢な女がやって来ました。 その人は山口先生を一つあけて座りました。 気品と気丈が混在しているような、それでいて妙に愛嬌のある人でした。 しばらくして、二人はどちらからと言うこともなく会話が始まりました。 ふと見ると、愛嬌のある女の人は山口先生の隣に席を移っていました。 山口先生はニコニコしながら軽快に盃を空にしては、隣に移ってきた女の人に酌をしてもらっているのです。 俺は少しうらやましい思いでその光景をながめていました。
 その人、酒で頬がほんのり色づいて、加えて心がゆるみ、その強い近視の眼鏡をはずした顔が、やけになまめかしいのである。

 「山口さん、今夜は幸福ですね。」
 「どうしてですか。」
 「隣に座っている人、本当に美しい人ですよ。」
 「ええ、私もそう思います。 声でわかります。 大人の女の人って感じでしょ?」
 「そう、その通り! 本当は眼見えてるんじゃねぇか!」
 「実は、都合のいい時だけ視力が復活するんですよ。」
 「じゃ、私、山口さんの眼が見えるうちに帰ります。 私のことが見えなくなったらさびしいでしょ。」

 その人は眼鏡をもとにかけ直し、いさぎよく店をあとにして行きました。
 「山口さん、いまの人、キツネだからね。 夢だからね。 嘘だからね。」
と、くやしまぎれに俺はたたみかけた。 実は山口先生の隣にはしばしば女の人が座り、楽しい語らいが始まる。 妬ましいくらいモテやがるのである。


 【追記】 11月はユズ、スダチ、カボスを大量に絞り、一升瓶10本程のポン酢を仕込みました。 12月はいよいよ沢庵漬けの仕込みです。 正月過ぎには出せるでしょう。

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