生肉

 時は流れ、季節は移り、秋を迎える。
 ホームページ更新しなければと思いつつ、書こうとすると、大津波の暴力シーンが押し寄せてきて戯れ言葉を消し去っていく。

 大津波と原発の話の前では何事も問題ではない。 意味を、その意義と力を失う。 が、その事だけで人間は生きているのではないから、卑小と言われても生肉のことを語ろう。

 福井県あたりの焼肉店が安価な牛の生肉をユッケで出し、それを食べた人が何人か亡くなってしまった。 一皿280円のユッケ、その価格がすでに怪しい。 生肉で出すほどの肉は、その鮮度、その質の良さ、そして味わいからすでに一皿280円は不可能だ。 物事には適性の価格がある。 その適性をたゆまず営為努力して値段を下げ、なお、商いをするのが我等のつとめである。 だけど、異常な安価はからくりがある。 うまくて良いものがそんな安い訳がないのである。 安けりゃ得した気分になるのは人情ではあるが、命がけで食する程のものではない。

 店の名前は言わないが、ある焼肉店で牛のレバの刺身を注文した。 出てきた牛レバはだらしなく不定形で皿にならび、色がしぼんでいた。 とてもじゃないが、生で食べる気には全くならなかった。 そんなものは火を通したってうまくはない。

 つまるところ、肉の生食は料理人の人格と才覚によるのだ。 そして、そこにはからくりのない価格がある。

 この焼肉店のユッケ事件の後、婆娑羅のメニューから牛のレバ刺身は消えた。 良質のレバーを卸していただいた立川臓器の社長は、どっかで間違いを起こさないとも限らない。 どこの店が不手際をするかもしれない。 過剰な心配から牛レバの扱いをやめてしまった。 美しくおいしい婆娑羅の牛レバ刺に復活の目処がたたない。 ならば闇の世界を通して、ヤバイ世界から牛レバを買わねばならぬのか。

 またしても、食を法律で縛ろうとしている。 だから、何事も安けりゃいいって事ではないのだ。 安かったら疑念をいだけ。

 <追記> 先日から店では牛レバの刺身の代わりということで、おいしいおいしい鹿の生肉の刺身を出すことにしました。

そして写真は9月の朝の仕入れ、新鮮で安全で美しい海の幸。


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