コーヒー・ルンバ

 近頃、よく阿佐ヶ谷に行く。 ラピュタスという小さな映画館がある。 そこは主に50年くらい昔の、日本の映画界が黄金期だった頃の作品を集めて上映している。

 昔なつかしい銀幕のスターにおめにかかるには、もってこいの場所だ。 だが、その中にけっこう若者が混じっている。 それはそれで、純粋に日本映画の黄金期とはいかなるものぞ、といった意欲を持って眺めているのかもしれない。

 ある日、開演時間までいくらか時間をつぶさなければならなかった。 北に向かって欅の並木通りを歩いて“棒”にぶつかった。 「ドゥ ゾォ ワァ ゾー」、俺はフランス語ができるから、たちどころに これはフランス語で“2匹の鳥”というのを理解した。
まあ、俺のフランス語はここで停止する程度ではある。 この言葉のそれ以上の意味は知らない。 60歳位のご夫婦がていねいに迎えてくれた。 浅焙りですか、深焙りですか、と声をかけてくれた。

 俺はコーヒーの趣味人ではないが、気に入った豆を買って毎朝いれて、一杯のコーヒーを飲んでいる。 「キリマンジェロ、浅焙り」というのを注文した。 美しい真っ白なカップに入れられてやって来た。 口にした瞬間、俺は「お見事!」と心の中で躍った。 気品と香り、軽い酸味、鮮やかな幸福に包まれた。 まったく予断がなく、いきなりの幸福に心がドキドキしてしまった。 御主人は俺の心騒ぎなど知らぬ存ぜぬの顔で次なる客のコーヒーを入れていた。

 かって、店(婆娑羅)の近所にフォーラムというコーヒー屋があった。 伝説のコーヒー屋がなくなって色々なコーヒー店をさまよった。
 どうにも物足りない。 香り、味わい、苦み、深み、俺は気付かないうちにフォーラムのコーヒーにはまっていた。 近隣のコーヒー屋の豆をかたっぱしから試した。 満たされなかった。 ところが、めったに行かないフランス料理屋でデザートの後に出てきたコーヒーに、目からウロコだったのである。 苦みが軽く、しっかりとコーヒーであるのに ほのかな酸味が口の中に広がる。 俺は料理のうまかったことを忘れてしまうほどに そのコーヒーを飲んだ。
 そして、フォーラム・コーヒーではない、異なる味のコーヒーを知った。 深く、苦みの強い。香りたちのぼるコーヒーの呪縛から離れて、優美な世界に酔ったのである。

 ベェートゥベン好きな酔っ払いが、
「歳とって ようやくモーツァルトが好きになったよ」てなもんか。

 それにしても、コーヒー屋稼業というのは優雅だなあと思う。 嗜好を売っているのだから高貴にふるまわなければいけない。 音楽は趣味が良く 高い質の音(趣味にうるさい客がいる)が要求される。 贅沢をつくした空間造りをして、たった500円位のコーヒー代。 1日、百人も二百人も客が来るわけないのに。 エレガントにふるまい、上品に笑顔する。 成り上がり者にはなれない稼業だ。 真に裕福なる人の稼業なのです。 なぜなら、質の高いものを出そうとすれば増々採算からはなれてしまうからです。

≪追記≫ 武蔵野市西久保2丁目アンダンテのコーヒーを愛飲しています。 ここで、コーヒーは豆である、というより、その豆をいかにころがすかということを学びました。ワザなのです。

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