親子のある風景

 仲良し家族が酒を飲みながら談笑しているのは大変うるわしい。
 いがみ合って意見のくい違いを口角泡をとばして己の意をまくしたてているのは、あんまり好ましくねぇ。 聞き受けるのは大変でも、嫌な顔もせず、聞いているのか寝ているのか、ただうなづいているっていうのは、なかなかの技かもしれない。
 
 俺の大好きな老先生はいつもニコニコしながら、「そうだねぇ」を繰り返している。

 でも、いつまでも、どこまでも、語り続けなければ気のすまぬ男もいる。 語るは人を偉大にする。 泣き叫ぶは、そこで力尽きてしまうが、語ることは立派にして偉大な者へと人を持ち上げてしまうこともある。

 雄弁な人を見ると、「すごい人が世の中にはいるもんだなぁ」と、すぐ感心してしまう。 
 俺などすぐに簡単に言葉でやり込められてしまうから、弁舌の達者な人間がいたりすると無闇矢鱈と身構えてしまう。

 我が家で一番の雄弁の勇は女房であることに決まっている。 雄弁の力で押しまくられているのは夫である俺でなく、近頃とくに無口で不機嫌でのそのそと家の中で居丈高にふるまっている息子だ。

 これから一人前の会社人間に妥協していく、汚れていく人間なれば、外でニコニコ、ハイハイしていなければならないのだから、家の中では無口、不機嫌は当然の有様だ。 加えて青少年期の理由なき反抗ではないが、言いがたき肉親嫌悪を抱くお年頃なのである。 それを女の性なのか、母親としての義務からか、色々と優しくしたり、面倒を見ようとする。

 「うるせぇなぁ」と言わないまでも、露骨に不機嫌と無口で対応している。
 俺はこの状況を正常と見ている。
 家族みんなニコニコ仲良くいつも一緒だなんてあるものか。
 いがみ、疎ましく思う心を突き抜けなければ大人の男にはなれない、大人の家族にもなれないということだ。

 昨夜の父親と息子の酒飲み、酔っぱらい対決なんぞ、すごかった。
 「アンタの持っている教育論は立派だけど、それで育てられた俺は被害者だよ。」 息子
 「俺は学びとった教育哲学を実践したんだ。 何が悪い。 少しいびつになっているが上等じぁねぇか。」 父

 「いびつを修正できたのは俺の実力で、アランの幸福論なんか、捨てちゃいなよ。」 息子
 「俺は、人間は教育によって幸福な生活を目指すことができるって、あたり前のことを言っているんだ。」 父

 「学校現場で出来ない教育を目指しているのに、横槍を入れるなよ。」 息子
 「何を青臭いこと言ってんだよ。 もっと金を儲けろよ!」 父

 この親と息子の雄弁なる真剣勝負は父の酔いつぶれで終了となったが、二人の口からは偉大な哲学者やら教育者やらの名前がぞろぞろと行列をなしていた。 ずいぶんと高級な論争をする親子もいるもんだなぁ。

 ところで我が家の雄弁の勇を、子育て実践の立場からこの論争に加えたら、もっと面白いことになるぞ、と。 対岸の火事を見るように思いました。

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