電動補助自転車

 車の右側運転席ドアのところに女の人が立っていた。 俺はその人に気づかずにハンドルを右に切ってしまった。 その瞬間、軽い音がして何かにぶつかったなと思って すぐに停まった。
 怪我はなかったが、ハンドバッグがぶつかったのだ。 危うく後輪でその人の足をひいてしまうところだった。

 一年以上前に緑内障の手術を受けたのだけれど、当初は0.4まで回復した右眼。 次第次第に低下して、いまや光は見えるものの殆んど映像を捉えることが出来なくなってしまった。 当然 視界もなくなる。 右視界が不能ゆえ、人混みの中ではしょっちゅう人にぶつかってしまう。 こと車ならぶつかるだけではすまない。 人身事故になる前に、俺は車をやめた。
 いつかはこうなると予想はしていた。 が、確認できていなければいけない映像が映っていなかった。 その現実に 「俺はダメだな!」 と断じた。

 さて、車をやめて早速困ったことは、毎朝の市場での仕入れである。
 三鷹から調布の深大寺にある市場まで5.6kといった所だが、行きは下りで楽なのだが、帰りはその分登りになる。 約500mを、自転車に荷物を積んで登るのである。 己の身体能力に少しは自信があったのに、毎日、毎日では肝心の仕事のときに立っていられなくなった。 加えて、雨に降られたりした日には、もう、泣き出しそうになってしまう。

 そんな哀れな後ろ姿に同情した女房は、アシスト自転車なる物をプレゼントしてくれたのである。

 電動の補助モーターを搭載し、ペダルをこぐ弱った脚力をやさしく助けてくれる。 平坦なところではスムーズに走り、登り坂では力強く、ダイナミックに押し上げてくれる。 もう、それはそれは、素晴らしい乗り物なのである。
 サラブレッドの雄々しき馬をいただいたような気分だ。 そして、ヘッドフォン付きのラジオも手に入れ、雨にも恐れることのないゴアテックスのレインスーツも買った。 もう、こわいものなしだ。

 毎朝、名馬 アシスト号にまたがり、耳にはベートゥベンのシンフォニーが高鳴り、真紅のレインコートで身を飾り、さっそうと南の彼方に向かって走るのである。

 よわい66才、片目のジャックは新たなる地平を見ている。

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