八十代 3人の男衆B
中村登紀夫の巻

 「君ー!、フランス語の勉強しないかねぇ」といきなり登紀夫さんにささやかれた。
 目的のな勉強をする程、ヒマなわけでないから、軽くいなしておいたら、又数日後、今度の日曜空いているかと来た。 仕方なく約束の場所に出向いて行くと、登紀夫さんの隣に金髪で青い瞳の肌がすきとおるように白いマドモアゼル美女がそこに居た。

 そのお方がフランス語の先生というわけだ。 もう断る理由などまったくないから 「俺、すごーくフランス語やりたいです。 登記夫さんと一緒なら気づかいしなくていいから」 と すぐその場で承諾した。
 「大沢君はかるいねぇ」 と いやみを言われたけれど ここは登紀夫さんだけにいい思いをさせてなるものかと、男、日本男子としての崇高な意地というものだ。 でなければ西洋からいらしたマドモアゼル美女に対して無礼だ。 甲斐性なしの無気力男に思われたくないし、何よりもマドモアゼル美女だ。 「ところで、お名前は?」 とたずねたら、すかさず登紀夫さんが 「マリー」 と 無粋な横やりをいれた。

 ああ、再びマリーだ。 確かルイ王朝最後の后はマリー、アントワネットだったな。 もしかしたら親戚か。 バカな! ゴダールの「気狂いピエロ」の、ベルモンドの恋人もマリーだ。 俺の親友のムルソーのヤツもマリーという名の恋人がいたな。 いよいよ俺にもだ。 マリーという恋人がめぐりめぐって来る予感にワクワクしてしまった。 運命とはこのように突然やって来るのだ。

 登紀夫さんはまじめな方だから、いつもしっかり予習をしてくる。 俺はそこそこの予習で間に合わせ、それに加えてマリーの喋るフランス語にうっとりしてしまうので、いっこうに上達しない。 でも (ce soir, Je vousdrai avec toi)今夜はあなたといたい。 といった類いのフランス語は沢山覚えた。

 二ヶ月後、3人のフランス語教室はマリーが研修を終え、帰国することでむなしく終わりになってしまった。 登紀夫さんはマリーをどこで知り合い、いかに友となるほどに親交をはぐくんだのか、その謎を明かさない。 老獪84歳の男の突っ張りだ。 老いてなお色っぽいのである。

 それから半年ぐらいたった頃、紫色の絹のふろしきをかかえてやって来た。
おもむろにその布をとくと、うすい黄土色に輝く少々大きめの器があらわれた。 登紀夫さんは陶芸家でもあった。 折々、色々な方々に自作の器をさしあげている。 なかなかの物もあれば、そうではないものもあった。 今日ははたして何だろうかと俺はとまどった。 使用目的が見えない作品なのだ。
 「あのう、これって ふた ついてないんですか。」
 「なんで そんなものが必要なんだ。」
 「いやぁ、もしかして これって 骨つぼじゃあないんですか。」 といったら、
 「ばか者、俺はまだまだ死ぬものか、だいいち、こんなつぼに俺の骨が入りきると思ってるのか!」
と、しかられてしまったけれど、香典ならいつでも先に受け取っておくぞと切り返す。

 この84歳の男、決して野暮は言わないが、若き日々TBSの記者だった頃、地方取材に行く。 その地方都市の夜の酒場で「俺は実にモテたねぇ」と、ひとり言のように俺につぶやく。 登紀夫さんが語る野暮ったい昔話もそろそろ終末か。

 それ故に老いから来るのか優しい詩情を見るのである。

トップページへもどる

直線上に配置