我が闘病

 人は誰もが皆 等しく、予期せぬ災いに見舞われる。 どちらにサイが投げられたとしてもタマタマだ。 こんな忌々しい人生をどうして生き続けなくてはいけなのか 嘆き悲しむ。 ついこの間のことが 東日本の大震災と 津波と 原発事故だ。 途方にくれ、なすすべのない人々の絶望をとことん突き付けられたばかりじゃねぇか。 なのに今度は西の九州に破壊が襲来した。

 地震にそなえろ、災害に油断するなと警告されても我等 民草はペットボトルの水やカンパンやらを押入れにため込んでるだけだ。 日本国から逃走するわけにもいかないから、つつがなく毎日の日常の無事を祈って暮らすばかりだ。 それでもって、わざわいはたまたま でしゃばる。 巨大な破壊が九州で起きた少し前、俺にもささいなことだが、予期せぬわざわいが起きた。

 雪の夜の帰り道、歩道に積もった雪に足を滑らせて、スッテン・コロリンと軽く転んだ。 なのに足はあってはならぬ方向に曲がり、膝下がボキリと折れた。
「ああ これで俺の生活は終わったな」 と、瞬間 観念した。

 その日から病院のベットで痛みに耐えながら、ただ天井をながめる日がはじまった。 痛みがひどいから座薬にたよる。 少し眠れるが 浅いから夜 時間がまもなく朝になる。 毎日が御来光を確認する。だが、御来光を迎えるのに横たわった肉体では太陽に対して無礼だ。 日の出は、座して身を清く 正しくかまえてお迎えするもの という身に覚えのない大和魂的 “ボク”を思った。 が、病室にいる間、とうとう その清らかな心の“ボク”を実現できなかったのは、痛みのせいばかりではなく 本来の怠惰のせいだ。

 全身麻酔の手術だったから本人は何にも知らずに終了していた。自覚がないから術後の激痛には八つ当たりだ。 誰がこんな痛い目にあわせたんだ、とばかりに駄々をこねる。 点滴やら、なにやらの管をぶっちぎり、悪態をついた。 そう言われたって、俺には意識がないから 「ああ、それは それは ご無礼をいたしました!」 と 平にあやまるしかない。 その一部始終をながめていたのは女房だけだ。 またしても男の沽券に関わる恥をにぎられてしまった。

 明けても暮れても 骨の再生を待つばかり。 今日も明日も又その明日も 、日暮れてとじる。 そして変わることなく明ける。 何にもしなくても腹は減る。 病院の食事を作る人は大変だ。 体力の弱い人用、中くらいの人用、なんでもござれの雑食者用と色々な患者さんに対応しなければいけない。 俺は作る人の気持ちも、苦労もわかるから文句言わずに食べた。 というより流し込んだ。 時々 料理の感想を求めるメモがお盆のわきにあって、それに返答文を記したりした。
「みそ汁うまかった」 「ヤサイと肉の煮つけうまかった」 「中華アンカケさいこう」 などなど。

 すると、即座に調理しているオバさん本人が病室までやって来て 「いつもおいしく食べていただいてありがとうございます」 とお礼にやって来る。 本当は流し込んで とまで言ってだまった。 それが人間関係を円滑にするということを俺は身をもっておしめしした。

 病院という優しい世界になれてしまうと、人間わがままであつかましくなる。 看護してくれる方々はひたすら我等患者の言い分を受け止めてくれる。 だからこのような申し分ない境遇から脱出しなければいけない。 脱出しようにも車椅子にたよっているような奴には何にもできない。 ならば従うしかない。 医者の命ずるままに、看護師さんのおっしゃるお言葉に、そして三食のおいしい病院食に舌づつみを打つ。 欲念をすてる。 己れをすてる。 京都あたりの高僧のありがたいおことば通りに 「肩から力をぬきなさい」 などと様々な なまけ言葉が浮かんだ。 そうさ、そう出来れば楽になれるだろう。 だが どこに閉じ込められていようと、人間にはどうしたって現実の生活苦難からは逃げられない。

 風が吹けば どこかに あとかたもなく飛び散ってしまう街の片隅の小さな酒場、三ヵ月も休業したら消滅である。 おびただしい災害がそこかしこであばれる。 人々は命うばわれ、生ける糧も失なう。 三ヶ月の休業の後、色々な方々の力にささえられながら、婆娑羅の燈りに灯がともった。 滅びるか、もちこたえるか、タマタマである。 わが闘病の心は常にそこにゆらいでいた。

 うまい酒と うまい肴を楽しんでいただきたい。 酒飲みの戯言も聞きたい。 何よりも仕事がしたいという素朴な願い。
どうか、再びの 婆 娑 羅 楽しんで下さい。

      2016.5.8

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