ラブホテル街の夜

 渋谷道玄坂の中ほどの路地を入って行くと、うす暗く、いっぱいのラブホテルが並んでいる。 そこを通るだけでも何やら後ろめたい、そわそわした気分になる。
向こうから手をつないで仲の良いカップルが歩いて来ると、俺まで眼が伏し目がちになり胸騒ぎがしてドキドキだ。

 「よーし、今度来る時は俺だって いい女と手をつないで ソワソワ気分でこの路地を歩くゾ!」 と 変な決意を胸に秘めてホテル街を出た。 もちろん俺ひとりでだ。
そして、目の前にいきなりユーロ・スペースという むづかしい映画専門の映画館がある。 俺はむずかしい映画を観るようなガラじゃないけれど、その映画を作った本人から「アイヌの姉妹の物語」を見に来てよ、と直接言われると「あ、はい」としか言えなくて、訳もわからずチケットを買ってしまい、夜の9時のラブホテル街をさまよい歩いて、とうとうむずかしい映画館にやって来てしまった。
 心も意思も弱いと、せっかくの休み、今頃はうまいモツ焼をモグモグ口いっぱいにして、イモ焼酎をゴクリ、ゴクリと飲み込んでいるのになあ。 弱き者は苦労ばかりするな。

 映画がはじまると、北海道らしき風景と八王子付近らしき風景と、それぞれそこに暮す人物が映し出され、笑ったり、泣いたり、怒ったりと、ドキュメンタリー映画なので筋を解釈する頭のはたらきはしなくて済む。 唯々、映し出されれる まさに活動写真を見ていればよいのである。 よいのであるが、人のあたりまえの日常を30分も見せられると、「おねがい!もっと面白い事をやったり、ふつうにはやらない人の行動なんかを この人達はやっているんだ。すげぇ事を考えているなあ」というようなことを見たい欲が出てくる。 絶世の美女が台所でネギをきざんでいるのなら、その白い指先 どうか切れませんようにとか、その白い指で手をにぎられたら どんなに気持ちいいか なんてことを想いながら見れるのに、アイヌの姉妹はごく普通の少したくましい女というだけのことで、見る者を その映像に釘づけしてしまう力があるとは思えなかった。

 ミック・ジャガーやボブ・ディランの日常ドキュメントだったら、
 ああ、こんなパンツをはいているのか、とか タバコはずい分はしっこまで吸うんだとか、女を抱きよせるときは右手をまわして首に回すのかと、などなど どんなささいな事でも飽きずに見れる。 それは好きであるからだ。

 この映画を作った方も アイヌ姉妹を好きだったのだろう。 違うのは 俺のようにヒワイな眼先ではなく、亡びつつあるアイヌ文化の中で生きている姉妹を見ているということだ。

 アパッチ族も スーウ族も クマン族も、世界じゅう いたる所・国々で栄える民族があれば、生命をうばわれ 解体し 消滅し、その民の名さえ忘れ去られた族がいる。
 アイヌ族もまた、その消え行く民ということか。 その歌は消え行く民のすすり泣きなのです。 テーマは、悲しく 未来が見えなくても 歌はありつづける。
 それをドキュメントするということはむずかしく、やっかいな作業で、どうしてこんなむずかしく、やっかいな事をなさったか、その方が謎でありました。
 唯 好きだ、ほれてる なんてことで2時間あまりの映画を作れるものなのか、亡び行くものへの心優しき感傷が どうにもならないくらい俺には欠落しているのか。

 「おいらには、かかわりのねぇことでござんす。 どうかほっといてくだせぇー。」
と申し上げるしか、「アイヌの姉妹の物語」は遠いものでありました。

≪追記≫
 12月29日まで営業。 新年は1月5日からです。


 

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