インパール

 小春日和という言葉が好きだ。
ぬるくて、のんびりで、なまやさしくて、はっきりしてなくて、冬なんだか、春なんだか、なまけ者にとっては実にありがたい言葉だ。 今年の正月は そんな小春日和にめぐまれた。

 「なあー。 お母さん(いつの頃からか女房のことをこう呼んでいる)朝めしの時のたくあん残ってるだろ」
 「それと、コップでいいから冷酒を一杯ついでくれ。」
 「ついでと言っちゃあなんだけど、君のヒザ枕があったら もう言うことない正月なんだがなー。」
 他愛のない実に平凡な清貧的願い事なのに。

 「何にねぼけた事 言ってるの!新年の始まりとは神聖なものでしょう。 昼の日中からお酒のむなんてダメ!もっと上等な男になりなさいよ。」
と、逆襲され、
 「いい映像を録画しておいたから、それでも見て頭冷やしなさい。」
年の始まりからやられてしまった。

 「死者3万人、傷病者4万人とも言われる。 日本軍はこのチンドウィン河をさかのぼりインド国境の街インパールへと進行した・・・」

 重々しい声のナレーションが流れ出し、嫌がおうなく起き上がり、女房のヒザ枕をあきらめて画面の前で身を正した。

 映像は元兵士(当時は20代前半、今なお生きている方々の証言)、元軍人(殆どが20代の新任)、戦地の地形、戦場での実写フィルム・指揮する司令官上層部の名前や発言、大本営という軍の最高機関のこと、作戦はどのように立案され、実践に及ぶまでの経緯 などなど、戦争を知らない者、実際に戦場におもむいた人々、その映像は人間をゆさぶり、限りなく、どこまでも残酷な戦争の実体を見せつけて、おおいかぶさってくる。

 大本営は連名でハンをしているが、その作戦の責任を明確にすることをさけている書が映し出され、偉い方々は「では、やってみましょうか」なのであった。

 そして、ビルマ方面軍という巨大な軍団が組織され、大東亜共栄圏を建設するぞの旗にあおられて、いよいよ密林ジャングル地帯へと入り込んで行く。
イギリス国の軍団はインパールとコヒマという町に駐留しており、その二つをビルマ方面軍は3週間もあればカンラクしてしまうぞと、司令官どのは快テキな指令室からのべた。
“皇軍に敵なし、弾薬食糧なくも敵からうばって戦うから前進あるのみ”
“どうかインパールをカンラクさせたまえ” と、朝時の祝詞をよんでいたという。

 こんな実態を知ると、弱き者の味方になりやすい自分としては、どうしても兵士の方々の悲しみばかりが気になってしまう。 雨と泥にまみれ、マラリアにやられ、水を飲めばアメーバ赤痢で次の日には死ぬ。 逃避行で歩きつづけた密林は白骨街道となり夥しい死体がゴミのようにちらばっている。 元兵士は だいたいの人が97才だ。 たまたま生き残れたと言う。 だからこそ押し出すようにつぶやく。
 「戦争はやっちゃあいかん」
 「戦争はむなしい。」

 5千人殺せばインパールはとれる。 と、司令官の声は敵5000人を殺せばということではなかった。 日本兵5000人を戦死させる戦いをすれば、という軍上層部の会話を聞いてしまった青年将校は、いま97才、吐き捨て、嗚咽しながら 「くやしい!」 と叫んで泣きくずれた。

 一方、インパール作戦の指揮官、第15軍の司令官 牟田口中将という方は、もちろん3万人の戦死者の中にはいなかった。
戦後1962年の録音が流れた。
 「私はどうしてもあの作戦を遂行して勝利したかった。 インパールを取って終りにしたかった。」

 勇ましく、いかにも軍人である誇りに満ちた声が流れた。 少しの反省もなく、己の信ずるところを語った。 軍人として、陸軍の司令官として、巨大な軍を動かす者は すべからく戦いの魔力にすいよせられるのだろう。 軍務をスイコウすることはこの方の使命であった。 そして歓びであり幸福であったろう。 だが3万人の死と4万人の傷病者とのバランスは一体どのように考えればよいのか。

 余談ながら この録画を見終わった時に、コッポラの映画「地獄の黙示録」を思い出した。 マーロン・ブランド扮するカーツ大佐と牟田口中将が重複した。 俺の誤認かもしれないが。
 
 それでもって、俺の正月気分はいっぺんにすっとんだ。

 人類は戦争のつみかさねの上にのっかって、又 再び いくさをするのか。

                      2018.1.20
                       大澤 伸雄

トップページへもどる

直線上に配置