春に おくりもの 3つ

 “昔々 あるところに・・・” で始まる宝物伝説には善行をつんだ人の好い、誰からも好かれる おじいさんが登場する。

 俺もあやかりたいなぁと思い、果報は寝てまってろということなら すぐに実行だ。
 新緑の春、雪解けの春、生命の春、春には全身的な力強い明るさがみなぎっている。 しかし、果報は消極的に生きているからこそやって来るのだと判断し、ねたり、食ったり、ぼけたり、しゃにかまえたりと、自分にとって まったく自然体でよいということだ。

 四月の中頃、京都の長岡京というところから筍がやって来た。 若々しくふとった筍は、少し湿った京都の竹林の泥をまとい、まだ生きているかのように なまめかしい土の臭いを発散している。

 「今は昔、長岡京に竹取の坂中のひろし という翁ありけりに・・・」 と失礼ながらオキナと言ってしまったが、自ら鍬をかついで竹林を歩きまわる程に若い方だ。 この時期になると、かぐや姫伝説と坂中オキナが京のみやびな土の中から うるわしい糧を掘り出して届けてくれる。 店のお通しは ほぼ毎日が竹の子の煮物でした。

 その一週間後、岩手県は北上市から鳥獣戯画にあそぶ大沼老人から、山谷にわけいって採集した山菜の色々がやって来た。
 「腹をすかした熊に出会ったりしないの。」
 「その時は熊に向かって ヤアー元気か?」
と言うらしい。 嘘か本当かよりも、大沼老人は山の神に守護されているであろう純朴な野生を感じる。 無口とキラキラ輝いている目は山のくらしに育まれた力強さだ。 いっぱいの山菜を、俺は都会人の弱々しい手さばきで、山菜の白あえをこしらえた。 どうか熊に喰われませんようにとだけ祈った。 山菜が送られてくる。 それが無事である証しだ。

 今年の二月の誕生日に、店の手伝いをしてくれている若者の皆から、プレゼントの錫の酒注ぐ器(チロリ)をいただいた。 それで酒をあたためると、まことに具合のよい燗酒ができあがる。 それで ついつい もう一杯が又一杯になってしまう。
ところがその錫の器の貫禄に対して受ける方の器が弱い。 酒のうまい、まずい、にケチつけるくせに 酒盃にあまりわがままは言わない。 だから そのあたりにある上等ではない酒盃でよしとしていた。

 その包みをほどくと 小さな四角い桐の箱がでてきた。 桐の箱の中には黒と茶のしぶい文様の酒盃があった。

   岐阜県多治見 陽明庵 加藤直彦
という方の作品でした。

 「古希のお祝いに」
   立田誠一郎・香 平成三十年 吉日
とありました。

 粗末な器で酒をのんでいるチグハグな暮らしぶりを見透かされたようで、あまりにも的をえたプレゼントで “お見事” と うなるばかりでした。

 それに いたしても たて続けに心を射抜かれたおくりもの、なまけ者の果報としては 一つでもすごいのに 三つとはいかなることぞ。

 人は優しい。 だが冷厳に生きている様を見つめる。 俺は おくりものに恥じないくらしを刻む。 たいへんだなぁー。 りっぱには生きられないけれど、恥はかきたくないしなぁー

 人の気持ちはすぐゆらぐ、変化したり動転したりと忙しい。 でも身の丈だけは忘れないぞ。


                30年 5月 13日 大澤 伸雄

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